落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第21主日(特定27)説教「神は偉大 詩70」

2011-11-02 18:10:59 | 説教
S11T27Ps070(S)
2011.11.6
聖霊降臨後第21主日(特定27)説教「神は偉大 詩70」

1. 詩70と詩40との比較
詩40の後半と基本的には同じ。詩40においては、この部分はかなり雰囲気が異なり、民間の流行歌の影響か、俗っぽい言葉が使われている。詩としての格調もない。おそらく、独立していた詩70に多少手を入れて詩40に書き加えたものであろうと思われる。その意図は明白ではない。
その他、詩70に関わる文献的、語義的諸問題が多くあるが、本日は、それらを全て省略する。
2.「主は偉大」(イグダル ヤハウェ)
3節の「それ見たことか」というあざける言葉も面白い問題を含んでいるが、それも省略せざるを得ない。ただ一点5節の「神は偉大な方」という叫びについて集中して考える。この言葉は詩40では「主は偉大」と訳されており、その方がオリジナルであると考えられている。
「主は偉大」という言葉はヘブライ語では「イグダル ヤハウェ」で、聖書では思ったより少ない。新共同訳ではヨエル書2:20、21に2回登場するだけである。それに近い言葉として「主は大いなる神」が1回(詩95:3)、「主は大いなる方」が2回(詩135:5,147:5)である。しかし問題は訳語とか思想ではなく「イグダル ヤハウェ」というかけ声である。興味深いことに、この2つの単語の組み合わせを「主は偉大」と訳している個所は見当たらない。詩40にせよ詩70にせよ新共同訳では「主をあがめよ」と訳している。同様に、詩21:14、詩35:27、詩99:5、9、詩107:32のいずれも「主をあがめよ」と訳している。「あがめよ」と呼びかける言葉とあがめているその言葉とは意味が異なる。つまり、「イグダル ヤハウェ」という言い回しを「主は偉大」と訳すことを避けているとしか思えない。何故だろう。
3.イスラーム教徒の「アッラーは偉大なり」
話は変わるが、イスラーム教徒は「アッラーは偉大なり」という言葉をよく口にする。先日もTVでリビアのカダフィ大佐が死亡したというニュースを聞いてリビア人たちが銃をかざし、口々に「アッラーは偉大なり」と叫んでいた。アッラーはイスラーム教の神を意味する。その点ではユダヤ教徒がヤハウェ以外に神はいないというのと同じである。「アッラー」という単語は「神」を示すアラビア語である。イスラーム教徒にとって「アッラーは偉大なり」という言葉には、私はアッラーに従って生きる、という決意が込められている。その意味ではこの言葉はいわゆる神論、神についての教え以上のものである。テロリストは「アッラーは偉大なり」と叫んで死ぬといわれているが、「殺された人は気の毒ではあるが、アッラーの御心に従っているのだ」という自己の生命を超えた信念がある。イスラーム教徒にとって、この短い言葉は自分の生き方、価値観、生き方、そして死に方の全てが込められている。イスラーム教徒はこの一言のために命をかける。
4.ユダヤ教徒にとって「ヤハウェは偉大なり」
ユダヤ人にとっても「ヤハウェは偉大なり」という言葉は、イスラーム教徒のそれと同じ意味を持っている。というよりも、歴史的にはユダヤ人の方が先であろうが、このかけ声自体はユダヤ人社会ではあまり広まらなかったようである。しかし、その発想、思想は4節の「あなたを求めるすべての人はあなたのうちにあって喜び楽しみ、救いを尊ぶ人は『神は偉大な方』といつもたたえる」に顕著に表れている。つまりユダヤ人の社会においては「ヤハウェ偉大なり」という言葉がもつ戦闘的・民族的な意味よりも、神への賛美として展開したのであろう。しかし、この言葉自体には単なる神に対する賛美の言葉でつきるものではない。多くに人々から笑いものにされても、命を狙われるような迫害を受けても、なお「ヤハウェは偉大なり」と声を出す。
両者に共通することは、非常に短い言葉だということである。極度に短い言葉で、信仰を言いあらわし、自分たちの価値観や言い方を言いあらわす。信仰というものは最終的にはそのような最も短い言葉で言い表されなければならないし、またそれが必要なのである。ダラダラとしてしか表現できない信仰には「まやかし」があるといったら多分言い過ぎであろうが、反省すべき点でもある。というより、ごく自然にそうなるというのが宗教の真相なのであろう。佛教でも「南無阿弥陀仏」(これを唱えることを「念仏」という)とか「南無妙法蓮華経」(日蓮宗の御題目)という短い言葉で全てを言い表している。
5.キリスト教信仰では
キリスト教信仰ではそれは何だろうか。そのことを考える前に一言、唯一神信仰というものについて考えておく。世界の多くの宗教の中で一神教と呼ばれている宗教はユダヤ教、キリスト教、そしてイスラーム教である。非常に注目すべきことは、これらの宗教が唯一神として信じられている「神」は同じ神である。これは非常に不思議なことで理屈から考えても唯一神教は色々な所で発生してもいいものなのに、現実的にはこの3つしかない。しかもこれら3つは結局同じ神を信じている。つまり3つともいわゆる「アブラハムの信仰系列」に属している。確立した順序からいうと先ずユダヤ教が紀元前趨勢期前に成立し、そこからキリスト教が紀元1世紀にユダヤ教の一分派として発生し、紀元7世紀(610年)にムハンマドによってイスラーム教が誕生する。ユダヤ教ではヤハウェを唯一のエロヒーム(神)とする。その点ではキリスト教は原則的にほとんどそのまま受け継いでいる。ところがイスラームではアラビア語の神という言葉アッラーという言葉をそのまま神の名前とし、固有名詞化し、普通名詞としての神という言葉も否定する。原語の違いはあるがヤハウェもアッラーも同じ神を示す。聖書の神の究極の名前は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でまさに、それはユダヤ教の神でもあるし、イスラーム教の神でもあるし、キリスト教の神でもある。
6.これに見合うキリスト者の告白
「ヤハウェは偉大なり」、「アッラーは偉大なり」に匹敵するキリスト教の言葉は何であろう。パウロはそれを「イエスは主なり」という。パウロによると、それは必ずしもパウロのオリジナルではなく、パウロ以前からあった告白であるという。非常に重要な言葉であるにもかかわらず、この言葉自体は新約聖書においてたった3回しか用いられていない。
1コリント12:3 <ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。>
フィリピ2:10-11 <天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。>
ロマ10:9 <口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。>
7.「キュリオス」
ここで用いられている「主」という言葉は旧約聖書で用いられている「ヤハウェ」とは異なる。しかし現実的には当時の信徒も、現在の信徒もほとんど同じ意味に用いている。従って同じように理解したからと言って間違っているとも言えないが厳密には異なる。ここでの「主」という言葉はギリシャ語の「キュリオス」であるが、重要なことはその語源的な意味というよりも、初期キリスト教会が生きていた時代の用法で、当時ローマ帝国の政策として宗教統制が勧められ、「キュリオス・カエザル」、つまり「カエザルはキュリオスなり」という宗教政策が強調されていた。いわば当時に全てのキリスト者は「カエザルに従うのか、イエスに従うのか」、言い換えると「カエザルがキュリオスか、イエスがキュリオスか」という問いの前に立たされていた。もちろん、この問いはキリスト者に対してだけではなく、ユダヤ人にも突きつけられた。ユダヤ人はそれに対して「ヤハウェは偉大なり」という合い言葉で抵抗し、その結末は神殿の崩壊、武力闘争派の全滅、ユダヤ民訴句の離散という悲劇であった。(当時まだイスラーム教は成立していない。)
キリスト教徒も「キュリオス・イエスース」を旗印としてローマの迫害に抵抗した。まぁ、この場合は抵抗というよりも「逃げ回っていた」という方が真実に近いかもしれない。というよりも抵抗するほどの勢力もなかったということであろう。ただ内部的には「キュリオス・イエスース」というかけ声で励まし合い、生き残りにかけた。その意味ではまさに「キュリオス」という言葉は「神」を意味した。いわばイエスは神であるか、人であるかという問題は哲学的・神学的な課題ではなく、キリスト者の価値観、生き方の問題として理解が深められた。「キュリオス・イエスース」において重要な点はそれぞれが自分の責任において自分の口で「キュリオス・イエスース」と告白しなければならないということで、ただ心の中でそう信じているのでは無意味だという点である。しかも、それと矛盾するようであるがそれができるのは、自分の力によるのではなく霊の働きだという。この「自らの口で」という点と「聖霊によって」ということとが統一されるところで始めて「言える」ということが成立する。

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