落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>思い直す神

2007-09-10 20:17:48 | 講釈
2007年 聖霊降臨後第16主日(特定19) 2007.9.16
<講釈>思い直す神   出エジプト記32:1,7-14

1. 本日のテーマの確認
先ずはじめに、本日のテキストを確認しておこう。一節ではイスラエルの民衆は「モーセが山からなかなか下りて来ない」という状況で、モーセの兄であるアロンに向かって、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と要求している。本日のテキストはここから始まる。そして、2節から6節までを省略して、7節から本題にはいる。省略された部分では、民衆の要求に応えて、アロンが民衆たちから彼らの所有する金銀を集めて、それを鋳直して「金の牛」を造り、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と宣言する場面が描かれている。映像化すると非常にドラマテックであろう。その上で、金の牛の前に祭壇を築きどんちゃん騒ぎのお祭りをした、とのことである。なかなか面白い場面であるが、この場面は省略されている。つまり、偶像云々ということは本日のテーマではない。
本日のテーマは、そのことをめぐっての神とモーセとの態度である。先ず神は、民衆が行った一連の行為に非常に腹を立てておられる。そして、直ちにモーセに向かって民衆の行為を見せ、「直ちに下山せよ」とお命じになる。神はかなり興奮している。その混乱の様子が言葉の内容に反映している。モーセに向かって、「直ちに下山せよ」と命じられた神が、舌の渇かないうちに、「今は、わたしを引き止めるな」と言う。つまり、「下山せよ」と言うときには、民衆に対してモーセが指導し、改めさせるということが前提であるが、「今は、もう引き止めるな」と言うときには、神ご自身が彼らのもとに出かけ、彼らを直接滅ぼすという意味であろう。この神に対して、モーセはなだめる。この時の神に対するモーセのなだめの言葉が非常に冷静で、理屈っぽい。
「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか」(11~13)。その結果、神は災いを下すことを思い直された。ここまでが本日のテキストである。
もちろん、物語はそれで終わらない。この後、モーセは神の律法が刻まれた2枚の石(十戒)を抱えて民衆のもとに戻り、どんちゃん騒ぎをしている民衆に向かって、その2枚の石を投げつけ、破壊し、雄牛の像を粉々にし、アロンを糾弾し、民衆の中の扇動者たちを皆殺しにした。その日処刑された数は3000人と記録されている。しかし、このモーセによる粛正は、神による裁きではない。
つまり、本日のテキストのテーマは神に対するモーセのなだめの言葉である。あるいは、モーセになだめられて、神は災いを下すことを思い直されたということにある。
2. 思い直す神
ここに描かれている「神」は、哲学者が描く神とはかなり異なる。哲学者とまで言わなくても、わたしたちが普通考えている神とはかなり異なる。腹を立てたり、怒鳴ったり、反省したり、思い直される神である。恐ろしさだけの神ではなく、優しいだけの神でもない。災いを下すが、同時に恵みも与える神である。と言って、決して人間か神か分からないような「神話的な神」でもない。それらすべての神のイメージを含めて、一つの言葉で言い表すと、「思い直す神」である。
聖書には何カ所か神が思い直すというイメージが語られている。もっとも有名な物語が「ヨナ物語」であろう。ニネベの町を滅ぼすことを決意された神は預言者ヨナにニネベ滅亡の予告を語らせる。預言者ヨナの言葉を聞いたニネベの町の人たちは上は王から下は一般町民までことごとく悔い改めたので、神はニネベの町を滅ぼすことを思い直された。
神はせっかく思い直されたのに、町に人々が悪すぎて、滅ぼされた町もある。それが、ロトの家族が住んでいたソドムとゴモラの町であった。
思い直すというのとは少し異なるが、ノアの洪水のときは、神は人間を創造したことを悔いておられる(創世記6:6)。
預言者エレミアは神殿において、「あなたたちが悔い改めて、神に立ち帰れば、神はエルサレムの滅亡を思い直されるかも知れない」という演説をしたが、その演説のために預言者エレミヤは危うく死刑にされるところであった。しかし、一般民衆たちが預言者を殺すことを恐れたため処刑だけは免れた(エレミヤ書26:1-19)。
預言者アモスは、次のような二つの幻を語った。
第一の幻(7:1-3)
主なる神はこのようにわたしに示された。見よ、主は二番草の生え始めるころ、いなごを造られた。それは、王が刈り取った後に生える二番草であった。いなごが大地の青草を食べ尽くそうとしたので、わたしは言った。「主なる神よ、どうぞ赦してください。ヤコブはどうして立つことができるでしょう。彼は小さいものです。」 主はこれを思い直され、「このことは起こらない」と言われた。
第二の幻(7:4-6)
主なる神はこのようにわたしに示された。見よ、主なる神は審判の火を呼ばれた。火が大いなる淵をなめ尽くし、畑も焼き尽くそうとしたので、わたしは言った。「主なる神よ、どうぞやめてください。ヤコブはどうして立つことができるでしょう。彼は小さいものです。」 主はこれを思い直され、「このことも起こらない」と主なる神は言われた。
これら二つの幻は明白に「思い直す神」のイメージが語られている。
同じような預言はヨエル書にも記されている。
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ。あるいは、主が思い直され、その後に祝福を残し、あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を、残してくださるかもしれない。(2:12-14)
3. 「思い直す神」の絶対性
「思い直す神」ということを強調すると、「いい加減な神」というイメージが出てくるだろう。何か人間の側の頑固さや悔い改めというような行為によって左右される「いい加減さ」を感じるのではなかろうか。そこで、「思い直す神」についての決定的な性格、あるいは本質を語っている聖書の個所を紹介しよう。
預言者エレミヤは陶芸師の仕事を引用して、「あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す」(8:7-10)と語る。これは分かりやすい。神は神自身の作品が気に入らなければいつでも「作り直す」。「思い直す神」は「作り直す神」でもある。ここが聖書の神の決定的なポイントである。聖書の神はイギリスの哲学者が考えたような「機械仕掛けの神(理神論)」でもなければ、人間の心の中にだけ存在する観念的な神でもない。むしろ、「思い直す」ということにおいて「存在」を明らかにし、人間と関わる神である。だからこそ、わたしたちは神に祈ることができる。神はわたしたちの祈りに耳を傾け、もう既に決定されていることでも「思い直す」ことができる。ここにキリスト者の祈りの秘密がある。
4. 新約聖書における「思い直す神」
「思い直す神」のイメージは新約聖書にも受け継がれている。たとえば、主イエスの語られた譬えの中に、こういうのがある。祈りについての話であるが、
「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる」(ルカ11:5-9)。
この譬えは、祈りについての譬えであるので、ここに登場する隣人とは神のことである。
主イエスご自身にも「思い直す」場面がある。
カナンの女が出て来て、娘の病気を癒やして欲しいとお願いする。しかし、主イエスの態度は素っ気ない。しかし、この女があまりにもしつこく願うので、弟子たちも参ってしまい、主イエスに「どうにかしてください」と言い出す始末であった。それでも、主イエスは不機嫌そうに、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答える。その主イエスの答えに対して、女はイエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言う。それでも、主イエスは態度を変えないで、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と答えた。なんとひどい態度であろう。もし、そんな牧師が居たら信徒たちから袋だたきになるであろう。しかし、女は謙虚に、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」この反応を見て、さすがの主イエスの態度も変わる。思い直して、娘の病気を癒やす」(マタイ15:22-28)。
神が思い直す伝統は新約聖書にも生きている。
5. 史上最大の思い直し
さて、「思い直す神」ということに関して、これだけはどうしても言っておかねばならないことがある。結論を先取りしておくと、神ご自身が関わる史上最大の「思い直し事件」である。その事件に入る前に、少し横道にそれるが、「仲保者」ということについて押さえておきたい。
本日のテキストに見られるモーセの行為とは「執り成し」とか「仲立ち」ということで、モーセは旧約聖書における代表的な「仲保者」と言われている。
わたしは若い頃から、わたしの周りでは、この「仲保者」という言葉を普通に使っていたので、一般的な用語だと思いこんでいたが、広辞苑によると、この「仲保者」という言葉は、「神と人との間を仲介する存在」を意味し、「ユダヤ教ではモーセが、キリスト教ではイエス・キリストがその典型」と説明されている。
この言葉を一般的な言葉で言い直すと、「仲介人」とか「仲人(なこおど)」という意味で、対立する、あるいは未知の両者の間に立って、両者の益を計るという役割である。つまり、「仲保者」を必要とする関係とは、対立、疎遠等、何らかの理由により直接にコミュニケイションできない関係にあることを前提とする。「仲保者」が間に立って調停することによって両者はの間に正常な関係を持つにいたる。言い換えると、仲保者の仲保によって、相対立する両者はそれぞれ自分の立場や主張を「思い直す」。
伝統的に、教会では主イエス・キリストのことを「仲保者(the Mediator)」であるとする。広い意味では、預言者、祭司等すべての聖職者が神と人との間に立つ仲保者とされるが、ユダヤ教では仲保者という場合、特にモーセが特別な位置を占める。キリスト教では、モーセに代わる者、モーセ以上の者としてイエス・キリストが「ただ一人の仲保者」とされる。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(第1テモテ2:5)。(参照:ヘブライ書9:15,12:24)な、新共同訳聖書では、「仲保者」という言葉を用いず、「仲介者」という言葉を用いている。
史上最大の「神の思い直し事件」は、十字架の出来事である。「 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」(ヘブル書9:15)。主イエス・キリストによる仲保の行為は十字架においてなされた。この十字架の出来事を通して、神は人間と和解された。神は主イエス・キリストにおいて人間の取り扱いについて思い直された。使徒パウロも次のように語る。 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(第2コリント5:19、参照ロマ書5:10,)。ここにキリスト教信仰の核心(コア)がある。

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