落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第16主日(特定19) 思い直す神

2007-09-12 20:36:39 | 説教
2007年 聖霊降臨後第16主日(特定19) 2007.9.16 八幡聖オーガスチン教会
思い直す神   出エジプト記32:1,7-14
1. 本日のテーマの確認
本日のテーマは、イスラエルの民が偶像を造り、どんちゃん騒ぎのお祭りをしているのをご覧になって怒る神をモーセがなだめ、神が「思い直す」という点にある。この時の神に対するモーセのなだめの言葉が非常に冷静で、理屈っぽい。 「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか」(11~13)。その結果、神は災いを下すことを思い直された。ここまでが本日のテキストである。


 2. 思い直す神
ここに描かれている「神」は、わたしたちが普通考えている神とはかなり異なる。腹を立てたり、怒鳴ったり、反省したり、思い直される神である。恐ろしさだけの神ではなく、優しいだけの神でもない。災いを下すが、同時に恵みも与える神である。と言って、決して人間か神か分からないような「神話的な神」でもない。それらすべての神のイメージを含めて、一つの言葉で言い表すと、「思い直す神」である。
聖書には何カ所か神が思い直すというイメージが語られている。もっとも有名な物語が「ヨナ物語」であろう。ニネベの町を滅ぼすことを決意された神は預言者ヨナにニネベ滅亡の予告を語らせる。預言者ヨナの言葉を聞いたニネベの町の人たちは上は王から下は一般町民までことごとく悔い改めたので、神はニネベの町を滅ぼすことを思い直された。
預言者たちの言葉にも「思い直す神」のイメージはいくつか見られる。その代表的な個所が、エレミヤ書26:1-19にある。「あなたたちが悔い改めて、神に立ち帰れば、神はエルサレムの滅亡を思い直されるかも知れない」という演説をしたが、その演説のために預言者エレミヤは危うく死刑にされるところであった。しかし、一般民衆たちが預言者を殺すことを恐れたため処刑だけは免れた。 アモス書7:1-6や、ヨエル書2:12-14等にも見られる。
3. 「思い直す神」の絶対性
「思い直す神」ということを強調すると、「いい加減な神」というイメージが出てくるだろう。何か人間の側の頑固さや悔い改めというような行為によって左右されるいい加減さを感じるのでなかろうか。そこで、「思い直す神」についての決定的な性格、あるいは本質を語っている聖書の個所を紹介しよう。 預言者エレミヤは陶芸師の仕事を引用して、「あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す」(8:7-10)と語る。これは分かりやすい。神は神自身の作品が気に入らなければいつでも「作り直す」。「思い直す神」は「作り直す神」でもある。ここが聖書の神の決定的なポイントである。聖書の神はイギリスの哲学者が考えたような「機械仕掛けの神(理神論)」でもなければ、人間の心の中にだけ存在する観念的な神でもない。むしろ、世界を支配し、自然を支配し、歴史を支えておられる神である。 だからこそ、わたしたちは神に祈ることができる。神はわたしたちの祈りに耳を傾け、もう既に決定されていることでも「思い直す」ことができる。ここにキリスト者の祈りの秘密がある。
4. 史上最大の思い直し
さて、「思い直す神」ということに関して、これだけはどうしても言っておかねばならないことがある。伝統的に、教会では主イエス・キリストのことを「仲保者(the Mediator)」であるとする。広辞苑によると仲保あるいは仲保者という言葉は、宗教用語で神と人との間を仲介する存在を意味する。ユダヤ教では仲保者という場合、特にモーセが特別な位置を占める。キリスト教では、イエス・キリストが「ただ一人の仲保者」とされる。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(第1テモテ2:5)。(参照:ヘブライ書9:15,12:24)なお、新共同訳聖書では、「仲保者」という言葉を用いず、「仲介者」という言葉を用いている。
わたしは若い頃から、この「仲保者」という言葉を普通に使っていたので、一般的な用語だと思いこんでいたが、ユダヤ教とキリスト教でだけ用いられる特殊な用語であるということに少なからず驚いた。いかに、わたしがキリスト教の世界にだけどっぷりと浸かっていたかということの証拠みたいなものである。この言葉を一般的な言葉で言い直すと、「仲介人」とか「仲人(なこおど)」という意味で、対立する、あるいは未知の両者の間に立って、両者の益を計るという役割である。 つまり、「仲保者」を必要とする関係とは、対立、疎遠等、何らかの理由により直接にコミュニケイションできない関係にあることを前提とする。「仲保者」が間に立って調停することによって両者はの間に正常な関係を持つにいたる。言い換えると、仲保者の仲保によって、相対立する両者はそれぞれ自分の立場や主張を「思い直す」。 史上最大の神の思い直し事件は、十字架の出来事である。この十字架の出来事を通して、神は人間と和解された。神は主イエス・キリストにおいて人間の取り扱いについて思い直された。ここにキリスト教信仰の核心(コア)がある。


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