落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>主に従う

2007-09-04 21:09:50 | 講釈
2007年 聖霊降臨後第15主日(特定18) 2007.9.9
<講釈>主に従う   申命記30:15-20
1. 決断の時
本日のテキストは特定10のテキスト30:9-14の続きの部分である。この間7回の主日を過ごした。7週間を経て、もう一度申命記に戻り、その続きを読むということには何か意味があるのだろうか。もちろん本当のところは、祈祷書を編集した人にその意図を確かめる必要があろうかと思うが、むしろその意味はわたしたちへの宿題と思っていろいろと思いめぐらす方が楽しいし、意味があるのだろう。
申命記29:1から30:20までの部分は、全体として一つのまとまりを示し、一つの演説としての筋が通っている。28:69によると、「主がホレブで彼らと結ばれた契約とは別にモアブの地でモーセに命じられてイスラエルの人々と結ばせた契約の言葉」であると述べられている。ここから、この文章を「モアブ契約」と呼び習わされている。ここで触れられている「ホレブでの契約」とはいわゆる「シナイ契約」と呼ばれているもので、モーセの十戒に関わる契約である。一応、ここではそのシナイ契約とは別の契約であるとされている。
このモアブ契約とは一口に言って、約束の地カナンへ入るに際して、ヤハウェなる神とイスラエルの民との間で取り交わされた契約である。
ここでの演説の論旨をまとめると、先ずモーセは、29章1節から19節で出エジプト以来の40年にわたる放浪生活を顧み、いかにヤハウェなる神がイスラエルを守り導かれたのかという恵みを確認する。次ぎに20節から28節において、神と契約を結ぶということの意味を語る。30章1節から10節において契約の内容を語り、契約への呼びかけがなされる。11節から14節まではその前の部分に含めることもできるが、ここでは特に掟を実行するということは決して難しいことではない、と説明される。いわばセールストークであるので、前の部分と分けた。15節以下が本日のテキストであるが、ここでは契約締結へ向けての決断を迫る迫力ある最終的勧告がなされる。
こう眺めてくると、モアブ契約を結ぶに当たって、契約への経過報告と契約内容の説明の後、しばらく考える時間を持ち、最終的契約へとするというスケジュールが見えてくる。つまり、特定10テキストと特定18テキストを続けて読むよりは、7週間の「間」をおいて、読む方が有意義であろうと思われる。つまり、この期間は契約締結へ向けての考える時間であると思う。
2. モアブ契約
本日のテキストのメッセージそのものは非常に単純明快である。単純すぎて、ほとんど考えるまでのこともない。決断を迫られているイスラエルの人々の目前には、「乳と密の流れる」豊饒なカナンの土地が広がっている。彼らは、ここを目指して40年間放浪の旅を続けてきたのである。そして今、いよいよそこに入ろうとするときに、神は「選べ」という。何を選ぶのだろうか。結論からいうと、そこでのすべての生活の土台ともなるべきもの、最終的に最も大切にしなければならないものは何かということである。ヤハウェに従うか、それともヤハウェ以外の神々を信じるのか。当然、カナンの地には土地の神々が無数に存在する。もし、ヤハウェを信じ、ヤハウェに従うならば、「命と幸い」に至る道を保証する。しかし、もしヤハウェ以外の神々に従うならば、それはイスラエルにとって「死と災い」に至る道となる、と言う。これが、モアブ契約の主旨である。
この時にヤハウェとイスラエルとの間に取り交わされた契約の言葉が「モーセの歌」として、申命記32章1節から43節に記されている。これを納めた箱が「契約の箱」(31:26)と呼ばれているものである。
3. わたしたちの決断
さて、本日のテキストについて簡単に説明をしてきたが、これは開くまでもイスラエルと神との間の契約であり、一応わたしたちキリスト者には関係ない。文化的継続性ということにおいては「学ぶ意味」はあるが、それ以上のものではない。ただ、事柄自体として考えるときに、主イエスの言葉、あるいは説教を媒介として、イスラエルと神との契約関係ということ、とくにそこでの民側での「決断」というものは、意味がある。その最も端的な主イエスの言葉が、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道は細いことか。それを見出す者は少ない」(マタイ7:13)という説教であろう。少し、独断的に言えば、主イエスのこの言葉の背景には、申命記30章の15節の言葉があったのだろう、と思われる。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」。主イエスのわたしたちの前に「命と幸い、死と災い」を置かれたのであろう。あなたの前にも、今「命と幸い」に至る道と「死と災い」へ至る道とが置かれている。主イエスに従う道は狭く、苦しい道である。しかし、主イエスを捨てる道は広く、平坦で、楽な道である。
これ以上の説明は不要であろう。それぞれが自分で判断でき、分かることである。そこで、本日はこのテキストについて、非常に感動的な文章を紹介しよう。
4. ボンヘッファーの説教「どの道の上にいるか」
命にいたる道は細い。そして、それを見いたす者は少ない。(マタイ7:13-14から)
服従する者たちの道は細い。すでに歩いている者であっても、その道からはずれてしまうことはよくあるし、道を見誤ったり、見失ったりすることもよくある。それを見いたすことは難しい。その道はまことに細く、常に道の両側に転落する危険に脅かされる。イエスの真理を証しし、告白すること、しかもこの真理の敵、イエスとわれわれの敵を、イエス・キリストの無条件の愛をもって愛すること──これこそが細い道である。
「服従する者は、地を受け継ぐであろう」というイエスの約束を信じること、しかも敵に無防備で立ち向かい、不正をなすよりはむしろ不正のために苦しみを受けること──これこそが細い道である。
他者の弱さ、不正を見、はっきりと認識するが、その者を決して裁かず、むしろ彼に福音を伝えようとすること、しかも決して豚に真珠を投げ与えるようなことをしないこと──これこそが細い道である。
それは耐えがたい道である。それはいつも破局に脅かされている。
この道を行くことを命令されていると自分で考え、自分を恐れながらその道の上を歩もうとする限り、この道を実際に歩むことは不可能である。しかし、イエス・キリストが一歩また一歩と私に先立って歩んで行くのを見、しかも彼だけを見て、自分も一歩また一歩と歩んで行くならば、私はこの道の上で守られるであろう。ところがこれと反対に、もし私が、自分の危険な行為に目を奪われ、先立って歩んで行く方を見るかわりに自分の道にのみ目をとめるならは、私はすぐにもつまずいてしまうであろう。イエス・キリストみずからが、まさに、「道」そのものなのである。彼こそが細い道であり、狭い門なのである。彼だけが、われわれにとって真に見いだすに値する方なのである。──このことさえ知れば、われわれはイエス・キリストの十字架という狭い門を経て、細い道を歩み命に至るようになるであろう。またその道の細いことこそが、われわれにとっては確かさとなるであろう。地上における神の子の道が、われわれもまだ二つの世界に属する市民として、この世と天の国との間の境界を歩む時に通らなければならない道である以上、どうしてそれが広い道であるはずがあろうか。正しい道は、細い道でなければならないのである。
(全集Ⅲ206頁 「キリストに従う」、主のよき力に守られて 11月20日分)

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