落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 「ちょっと変わった教会」  使徒言行録11:19~30

2009-05-11 15:33:40 | 講釈
           田原坂公園(西南の役記念)に立つ「美少年像」  

2009年 復活節第6主日 2009.5.17
<講釈> 「ちょっと変わった教会」  使徒言行録11:19~30

1. アンティオキアの教会
本日の使徒書にはアンティオキアの教会のことについて、その教会が設立されるに至った状況とその後の発展の姿が述べられている。アンティオキアの教会は当時の諸教会の中でもかなりユニークな教会であったらしい。ここにバルナバという人物が登場する。彼のことについては、すでに4章36節で紹介されている。例の「畑を売って献金した人物」である。教会の中では彼はかなり活動的であったらしい。アンティオキアで多くの人々が入信したという報告が入ると使徒たちは早速バルナバをアンティオキアに派遣した。
バルナバはそこで説教をしたり牧会をしながら、アンティオキアの将来を考えたらしい。そもそもアンティオキアの教会はそれまでの教会とはかなり雰囲気が異なる。はっきり言って、信徒たちの階層が異なる。同じユダヤ人といってもそれまで教会に加わった人々とは異なり、彼らはユダヤ教の伝統とは異なった生活をしていた。アンティオキアの町はローマ、アレキサンドリアに次ぐ第3の大都市で、人口約50万人という大商業都市であった。この都市ではユダヤ人は商業のための特別な権限が与えられ、多くのユダヤ人は経済的にも豊かであった。それだけにユダヤ人に対するある種の妬みもあり、しばしば反ユダヤ人の暴動もあったとのことである。従って、ユダヤ人たちはユダヤ人であることを隠す傾向があったと想像される。いわばユダヤ人たちが非ユダヤ的な生き方をする最前線であり、それは他の都市とは根本的に異なることであった。
2. バルナバとパウロの関係
バルナバはアンティオキアで伝道しながら、ここでの伝道にはそれまでの方法と宣教内容では手においないと考えたらしい。それほどアンティオキアは特別な状況であった。ここで伝道する最もふさわしい人物としてパウロのことを考えた。それで彼はわざわざタルソスまでパウロを探しに行き、彼をアンティオキアまで連れてきている。そして、約1年間共同牧会をしている。
バルナバとパウロとの関係は9:26~30で語られている。ガラテヤの信徒への手紙によると、ダマスコでキリスト教に回心したパウロはしばらくアラビアで黙想の期間を過ごし、再びダマスコに戻り、そこでダマスコの信徒たちと共に活発に宣教活動をかなり成果を上げている。それから3年後にエルサレムの使徒たちに挨拶に行く。その時、エルサレムの使徒たちはパウロをキリスト者として認めず、非常に警戒した。その時にバルナバが保証人になって使徒たちにパウロを紹介している。パウロにとってバルナバは恩人である。
3. アンティオキアの教会の特徴
アンティオキアの教会の特徴を一言でいうと、それまでの伝統的な教会から見るとかなり「変わった教会」であった。信徒たちもかなり違っていた。先ず民族的文化的背景がかなり違う。早く行ってしまえば、それまでの教会ではユダヤ教の伝統をかなり濃厚に保持していたが、アンティオキアの教会にはそれがなく、むしろ国際的な教会であった。従って、伝統的な教会でどっぷりと浸かって育ってきたバルナバの手に負えなかったのであろう。ここで牧会ができる人間はパウロしかいないというのがバルナバの判断であったのであろう。
そのために、人々はここの信徒たちを今までの呼び方では不釣り合いであった。それまでは人々は彼らを「イエスの弟子たち」とか「信じる者たち」とか、仲間内では「兄弟たち」という言い方で十分通じていたが、アンティオキアの教会の信徒たちには新しいニックネームを付けて呼んだ。それが「キリスト者(クリスティアノス)」という呼び方である。要するに、アンティオキアにおいて初めてキリスト者がキリスト者として外部の人々と接し始めたということである。それはある意味ではパウロの伝道の成果とも言えるであろう。アンティオキアにおいて教会は閉鎖的な集団から「解放された集団」へと展開したのである。
4. アンティオキア教会とエルサレム教会(教団本部)との対立
アンティオキア教会の特徴を示す一つの事件が起こっている。事件は今から考えると些細なことであった。アンティオキア教会の様子を調べるために教団本部(エルサレム教会)からペトロが派遣された。礼拝の後、いつものように会食がなされた。当然ペトロもその会食の席に着いて、みんなと一緒に食事をしていた。当然、そこにはユダヤ人も居れば非ユダヤ人も同席していた。それがアンティオキアの教会の普通の姿であった。ところがそこに突然エルサレムからヤコブの使いと称する人物が到着した。すると、ペトロは慌てだし、食事の席から離れて別の部屋に逃げ隠れた。そこに一緒にいたユダヤ人たちも、さらにはバルナバまでもが同じような行動にでた。その姿を見てパウロはペテロを罵倒した(ガラテヤの信徒への手紙2:11~14)。この事件こそ、当時の教会の現実であった。
5. キリスト者という呼び方には新しさがある
キリスト者という呼び方には、「一寸変わった人たち」というニュアンスを含んで何か新しさがある。おそらく初めてこと言葉を使った人たちは「顔をしかめて」、多少軽蔑の意味を込めて語ったのであろうと。しかし、その生き方が真に普遍的な人間性に基づいている限り、歴史形成力を持ち、次の時代を切り開く新しい人間を生み出す。パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:15)と宣言する。つまり、キリスト者とは「新しく創造された者」である。あるいは今までの伝統的な生き方とは異なる解放された生き方をする人々である。だから、1ペトロ4:16では「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはいけません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」と書かれている。この言葉は迫害者の呼び方を、むしろ誇りにせよという意味である。キリスト者という呼び名は新しい生き方をする人々という意味で、非常に名誉ある呼び名である。
6. 「クリスチャン」か「キリスト者」か
話はアンティオキアの教会のことから離れるが、日本でのキリスト者の呼ばれ方について少し考えてみたい。本日のこの箇所26節の訳語は口語では「クリスチャン」と訳されている。また、文語では「キリステアン」と訳されておりそれが原語に最も近い音である。現在では、「キリスト者」という言い方と「クリスチャン」という言い方とが同じように用いられているが、用い方によって少しニュアンスが異なるように思う。マスコミなどでは「クリスチャン」という言い方が一般的であり、マスコミが「キリスト者」というような言い方をしているのを見たことがない。
わたし自身は「クリスチャン」という言い方には少し抵抗を感じる。どうも、そこには「クリスチャン」とはこういう人間であるという世間一般の通念が押しつけられている様で、例えば「敬虔なクリスチャン」というような言い方がなされ、特に禁酒禁煙でおとなしく、典型的な「舶来のマイホームパパ」というようなイメージが強い様に感じる。勿論そのこと自体が悪いというのではないが、そこにはクリスチャンとはこうあるべきであるというようなイメージが支配している。確かに、明治の文明開化の時代に、それまでの町人、武士、農民というような従来のライフスタイルではやっていけなくなった社会において、その頃入ってきたプロテスタントの影響は大きく、その中で大胆にクリスチャンになった人々のライフスタイルは魅力的であったように思う。そこには「クリスチャン」という言い方の中に新鮮な生き方をする人々というイメージがあったと思う。しかしそのイメージが日本社会の中に定着してしまうと、逆にそのイメージがキリスト者を縛り付けるようになる。従って、そのイメージを打ち破り、福音的なキリスト者の生き方を表現するためにキリスト者は自らのことを「キリスト者」という言い方をする。現在ではカトリックの聖書を含め、わたしの見た限り全部の聖書でこの部分を「キリスト者」と訳している。
7. アンティオキアにおける募金活動
アンティオキアの教会における教会活動の一端が報告されている。ちょうどその頃、ユダヤ地方で大飢饉(47~48年)があったらしい。おそらく経済基盤のないエルサレム教会では深刻な打撃であった。それでアンティオキアの教会では自発的に募金活動がなされ、それをバルナバとサウロに託しエルサレムの教会に送金している。アンティオキアの教会は援助する教会であった。

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