2009年 復活節第5主日 2009.5.10
フィリポの宣教 使徒言行録8:26~40
1. 平凡な伝道者
本日の主人公はフィリポである。フィリポについての詳しい情報はない。ただ、彼は初期の教会において指導的な立場に立つ使徒ではなく、まともな礼拝堂もない地方で平凡に働くごく普通の聖職者であったということだけをイメージしたらよいであろう。実はこういう聖職者たちの活躍によって教会は成長したのである。フィリポについて一つだけエピソードを紹介する。
フィリポの前任地はサマリア人の住む土地で、サマリア人と犬猿の仲にあるユダヤ人がサマリアの町に入るということはあり得ないことであった。彼がそこに派遣された最初の伝道者であった、ということは注目に値する。フィリポによるサマリア人伝道は大成功で、使徒言行録によると「町の人々は大変喜んだ」(8:8)とある。
この時のエピソードとして興味深いことが記録されている。サマリアの町にシモンという名の魔術師がいた。彼は自分自身のことを「偉大な人物」と自称し、町の人々も大いに尊敬していたらしい。ところが、町の人々がフィリポの伝道により多くの人々がキリスト教に回心し、洗礼を受け始めると、シモンもフィリポの元にやってきて、洗礼を受け、フィリポの弟子になったとのことである。つまり、そのぐらいフィリポのサマリア伝道は成功であった。
この報告はただちにエルサレムの12使徒たち、つまり教会の「お偉方」に伝えられ、ベトロとヨハネが派遣されてサマリアに来ている。そしてそこで行なわれたのが、わたしたちで言うと堅信式である。そのことについて、使徒言行録は「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである」(8:16)と説明されている。彼らが人々の頭に手を置き、祈ると彼らは聖霊を受けた。これを見ていたシモンは金を持ってきて、「わたしが手を置けば、誰でも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」と頼んでいる。
2. エチオピアの高官の受洗
さて、サマリアで大成功したフィリポに転勤が命じられる。普通ならばサマリアで成功した彼の次の任地は大都会か、あるいは人々が多く集まる場所と考えられる。ところが彼の次の任地はエルサレムから遠く離れたガザと呼ばれる僻地であった。使徒言行録はわざわざそこのことについて「そこは寂しい道である」(26節)と説明している。フィリポは「すぐ出かけて行った」(27節)。この態度は重要である。人は成功したところに留まりたがる。留まる理由はいくらでもある。しかし彼は直ちにそこに行った。予想していたとおり、そこには何もない。家もない。人もいない。写真で見ても、現在でもガザへの道には所々に旅人の喉を潤す殺風景な井戸があるだけで後は岩だらけの道である。そこで誰に伝道したらよいのだろうか。恐らく、彼は呆然としたのではないだろうか。
しかし、そこに彼を派遣したのは聖霊である。呆然としている彼の前を一台の馬車が通る。馬車は非常に豪華である。きっと立派な人物が乗っているに違いない。後で分かったことであるが、それはエチオピアの女王カンダケの全財産を管理している高官が乗っていた。しかも、彼は馬車の中で大きな声で本を読んでいた。その本はどうやらイザヤ書のようである。本日の使徒書の32、33節に彼が読んでいた箇所が記録されている。そこで、フィリポは大急ぎで馬車に飛び乗り、窓から頭を突っ込んで、「そこの意味が分かるか」と叫ぶ。この状況を想像すると非常に面白い。高官には多くの家来たちが随行し、馬車は太陽に照らされて輝いていた。それにひきかえ、その馬車に飛び乗ったフィリポは決して立派な服装をしていたとは考えられない。しかも生意気に「読んでいる箇所の意味がわかるか」とどなるのであるから、はじめは高官にしてみれば何のことかさっぱり分からなかったと思う。しかし高官は落ち着いて「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。どうぞ教えてください」と、この訳の分からない人物に頼んでいる。そこで、フィリポは馬車の中に招かれ、走りながら聖書の講義が始まった。次のオアシス、つまり井戸のあるところに着いたとき、この高官はフィリポから洗礼を受けたのである。伝道とはこういうものである。偶然とも見えることの組み合わせにおいて、人間と人間との出会いが生じ、人は回心する。これこそがまさに「砂漠の中のオアシス」である。がさがさした人間関係、乾ききった心、他人を見ればまず危険に注意しなければならない社会、これはまさに砂漠である。このような状況の中にこそオアシスが必要である。教会は現代のオアシスにならなければならない。
この事件は思わぬ歴史の始まりとなる。実は、このエチオピア人が最初に洗礼を受けた非ユダヤ人である。使徒言行録の「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)という大きな枠組みの「地の果てに至るまで」の最初の一歩がここにある。
この出来事のメッセージは、聖霊は人の思いを超えて働き、聖霊に導かれる時、人の目には些細な出来事が実は世界を変えるような大きな働きであるということである。フィリポの働きはその秘密をわたしたちに語っている。
フィリポの宣教 使徒言行録8:26~40
1. 平凡な伝道者
本日の主人公はフィリポである。フィリポについての詳しい情報はない。ただ、彼は初期の教会において指導的な立場に立つ使徒ではなく、まともな礼拝堂もない地方で平凡に働くごく普通の聖職者であったということだけをイメージしたらよいであろう。実はこういう聖職者たちの活躍によって教会は成長したのである。フィリポについて一つだけエピソードを紹介する。
フィリポの前任地はサマリア人の住む土地で、サマリア人と犬猿の仲にあるユダヤ人がサマリアの町に入るということはあり得ないことであった。彼がそこに派遣された最初の伝道者であった、ということは注目に値する。フィリポによるサマリア人伝道は大成功で、使徒言行録によると「町の人々は大変喜んだ」(8:8)とある。
この時のエピソードとして興味深いことが記録されている。サマリアの町にシモンという名の魔術師がいた。彼は自分自身のことを「偉大な人物」と自称し、町の人々も大いに尊敬していたらしい。ところが、町の人々がフィリポの伝道により多くの人々がキリスト教に回心し、洗礼を受け始めると、シモンもフィリポの元にやってきて、洗礼を受け、フィリポの弟子になったとのことである。つまり、そのぐらいフィリポのサマリア伝道は成功であった。
この報告はただちにエルサレムの12使徒たち、つまり教会の「お偉方」に伝えられ、ベトロとヨハネが派遣されてサマリアに来ている。そしてそこで行なわれたのが、わたしたちで言うと堅信式である。そのことについて、使徒言行録は「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである」(8:16)と説明されている。彼らが人々の頭に手を置き、祈ると彼らは聖霊を受けた。これを見ていたシモンは金を持ってきて、「わたしが手を置けば、誰でも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」と頼んでいる。
2. エチオピアの高官の受洗
さて、サマリアで大成功したフィリポに転勤が命じられる。普通ならばサマリアで成功した彼の次の任地は大都会か、あるいは人々が多く集まる場所と考えられる。ところが彼の次の任地はエルサレムから遠く離れたガザと呼ばれる僻地であった。使徒言行録はわざわざそこのことについて「そこは寂しい道である」(26節)と説明している。フィリポは「すぐ出かけて行った」(27節)。この態度は重要である。人は成功したところに留まりたがる。留まる理由はいくらでもある。しかし彼は直ちにそこに行った。予想していたとおり、そこには何もない。家もない。人もいない。写真で見ても、現在でもガザへの道には所々に旅人の喉を潤す殺風景な井戸があるだけで後は岩だらけの道である。そこで誰に伝道したらよいのだろうか。恐らく、彼は呆然としたのではないだろうか。
しかし、そこに彼を派遣したのは聖霊である。呆然としている彼の前を一台の馬車が通る。馬車は非常に豪華である。きっと立派な人物が乗っているに違いない。後で分かったことであるが、それはエチオピアの女王カンダケの全財産を管理している高官が乗っていた。しかも、彼は馬車の中で大きな声で本を読んでいた。その本はどうやらイザヤ書のようである。本日の使徒書の32、33節に彼が読んでいた箇所が記録されている。そこで、フィリポは大急ぎで馬車に飛び乗り、窓から頭を突っ込んで、「そこの意味が分かるか」と叫ぶ。この状況を想像すると非常に面白い。高官には多くの家来たちが随行し、馬車は太陽に照らされて輝いていた。それにひきかえ、その馬車に飛び乗ったフィリポは決して立派な服装をしていたとは考えられない。しかも生意気に「読んでいる箇所の意味がわかるか」とどなるのであるから、はじめは高官にしてみれば何のことかさっぱり分からなかったと思う。しかし高官は落ち着いて「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。どうぞ教えてください」と、この訳の分からない人物に頼んでいる。そこで、フィリポは馬車の中に招かれ、走りながら聖書の講義が始まった。次のオアシス、つまり井戸のあるところに着いたとき、この高官はフィリポから洗礼を受けたのである。伝道とはこういうものである。偶然とも見えることの組み合わせにおいて、人間と人間との出会いが生じ、人は回心する。これこそがまさに「砂漠の中のオアシス」である。がさがさした人間関係、乾ききった心、他人を見ればまず危険に注意しなければならない社会、これはまさに砂漠である。このような状況の中にこそオアシスが必要である。教会は現代のオアシスにならなければならない。
この事件は思わぬ歴史の始まりとなる。実は、このエチオピア人が最初に洗礼を受けた非ユダヤ人である。使徒言行録の「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)という大きな枠組みの「地の果てに至るまで」の最初の一歩がここにある。
この出来事のメッセージは、聖霊は人の思いを超えて働き、聖霊に導かれる時、人の目には些細な出来事が実は世界を変えるような大きな働きであるということである。フィリポの働きはその秘密をわたしたちに語っている。