落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

復活節第6主日説教 ちょっと変わった教会

2009-05-13 11:11:21 | 説教
2009年 復活節第6主日 2009.5.17
「ちょっと変わった教会」  使徒言行録11:19~30

1. アンティオキアの教会
本日のテキストで注目すべき言葉は「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」(26節)である。今では当たり前になってしまった「キリスト者」あるいは「クリスチャン」という表現が始まったのはアンティオキアの教会からであったという。それまでこの人たちのことをどういう風に表現していたのかというとあまりはっきりしない。言い換えると、彼らの存在、生き方がそれ程周囲の人たちの違っていなかったので、特別な表現の必要がなかったのであろう。彼ら自身も「兄弟」とか「姉妹」とかで済ませていたし、外部の人たちは「イエスの弟子たち」とか、「あの人たち」という程度で済ませていた。ところが、アンティオキアの教会では少し状況が違ってきた。先ず、教会の内部からいうとアンティオキアの教会は「ちょっと変わった教会」であったし、教会の外部の人たちから見ると、ユダヤ人のようであってユダヤ人ではないし、と言って普通のギリシャ人や改宗したギリシャ人でもない。かなり「変わった人たちの集団」ということになる。と言うわけで、彼れらが「キリスト、キリスト」としょっちゅう言うために、「キリストの人たち」という意味で「キリステアン」と言い始めたようである。要するに、この言い方は教会外部の人たちによって名付けられたニックネームであった、と思われる。
2. ニックネームが本名になる
ところで、今日のテキストを読むと「キリスト者」という言い方が、かなり定着し、普通に使われているように思われる。つまり、「キリスト者」という表現が市民権を得ている。これは、ただ単に表現の問題ではなく、初めは「変わり者」と思われていたが、それが普通になったということを意味する。「変わった教会」が「当たり前の教会」になったということであろう。
では、アンティオキアの教会の何が「変わっていたのか」。その背景にある理由はいろいろあるが、一口で言うと、ユダヤ教の伝統から完全に分離した教会ということである。それまでの教会は、何だかんだといいながらも、キリスト教を生み出したユダヤ教の習慣や考え方を濃厚に維持していた。それをアンティオキアでは完全に払拭していた。難しい言い方をすると母体の民族性を完全に精算して普遍的な教会になったということである。易しくいうと「国際的な教会」であったということであろう。
3. 教会に於ける変わっていいものと変わってはならないもの
教会には変わっていいものと変わってはならないものとがある。何を変わってはならないものと考えるのか、あるいはむしろ変えなければならないものは何かということを判断するのものなかなか難しい。この点について、いろいろと議論する道はあるが、今日はパウロが語る言葉に耳を傾けたい。アンティオキアの教会とよく似た教会に対する手紙の中でパウロはこう語る。
「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(1コリント2:1~2)。
教会においてこれだけは変えてはならないもの、これを変えてしまったもはや教会でなくなるもの、それは「十字架に付けられたキリスト」、これ以外にない。わたしはあなた方の教会に行った時これ以外のことは語らない」という。このメッセージさえ変えなければ教会は教会としての命を持つ。すべての具体的なことはこの一点から見て、考えればいい。何が必要で、何が不要なのか。具体的な状況に対して、どこまで妥協してもいいのか。パウロの時代では割礼を受けるべきか、受けなくてもいいのかということが大問題であったが、パウロは「割礼の有無は問題ではない」(1コリント7:19)と言い切る。その他、結婚問題、離婚問題、偶像問題、奴隷問題等々当時の教会にとって重要だと思われる問題を取り上げ、パウロは自分の考えを述べているが、要するにパウロの基本的な姿勢は、そんなことはどうでもいいではないか、ということにつきる。
4. 新しい生き方
キリスト者という呼び方には、「一寸変わった人たち」というニュアンスを含んで何か新しさがある。おそらく初めてこと言葉を使った人たちは「顔をしかめて」、多少軽蔑の意味を込めて語ったのであろうと。しかし、その生き方が真に普遍的な人間性に基づいている限り、歴史形成力を持ち、次の時代を切り開く新しい人間を生み出す。パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:15)と宣言する。つまり、キリスト者とは「新しく創造された者」である。あるいは今までの伝統的な生き方とは異なる解放された生き方をする人々である。だから、1ペトロ4:16では「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはいけません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」と書かれている。この言葉は迫害者の呼び方を、むしろ誇りにせよという意味である。キリスト者という呼び名は新しい生き方をする人々という意味で、非常に名誉ある呼び名である。

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