落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>「正しい人」から「聖人」へ

2007-12-19 20:15:07 | 講釈
2007年 降臨節第4主日 2007.12.23
<講釈>「正しい人」から「聖人」へ  マタイ1:18-25

1. 竹下節子:「弱い父」ヨセフ──キリスト教における父権と父性──  講談社叢書メチエ
この日の説教の準備のために、現在、パリに住んでいる文化史家・竹下節子さんが書いた「『弱い父』ヨセフ」を読んだ。非常に面白い。キリスト教徒として70年以上生きてきたのに、知らなかったことがあまりにも多くあることに気付かされ恥じ入った。司祭などと言えたものではない。
ヨセフと言えば、イエスの父であり、マリアの夫である。クリスマスペイジェントでは欠かせない登場人物である。ところが、ヨセフのことについて、キッチリと学んだことはほとんどないし、考えたこともない。その盲点にピシッと焦点を合わせて、キリスト教の全歴史を背景に「聖ヨセフ」の姿を描き出してくれている。
たとえば、こんな文章がある。「父とは母の呼びかけによって成り立つ。母が『おとうさん』と呼びかけることで、呪文のように父は立ち現れる。それは男が生物学的父であることを『保証』するものではない。(中略)父子関係とは、因果的順列関係ではなく、母の呼びかけによって喚起される関係性なのだ。」
少し飛んで、「ヨセフはマリアによって『おとうさん』と呼ばれたからイエスの父であった。イエスは『天の父』を父と呼ぶことで神の子であった」(125頁)。
美事ではないか。この名言のほか、わたしなどがまったく知らなかった「聖ヨセフの靴下」という聖遺物についての紹介もある。
竹下さんは聖ヨセフの生涯について、下記のように総括している。
「一代で何事かを成し遂げるかのように見える人にも、長い間にその人を準備した歴史や家族の大きな流れの必然性がある。自分の人生に完結する意味が見出せない人も、実はその大きな流れの中で次代を準備する何らかの役割を担っているかも知れない。小さな自我や自分さがしにこだわって内向し、閉じていく人もあれば、大きな流れの源にある生命力やその向こうにある広がりや解放や完成を直感的にとらえて自我を拡大できる人もいる。
親には大きな流れの中で子供の持つ使命が分からないこともある。しかし、分からないからといって大きな命の流れをせき止めてはならない。強い父、命令する父、戦う父は、その強さや権威や勇気の根拠を、狭い自我や利己の意識に求めるのではなく、大きな超越価値に求めなくてはならない。聖ヨセフの謙虚が天使の声をキャッチした。ヨセフは、イエスが天の父から与えられた使命を果たすことを助けたのだ。」(203、204頁)
2. ヨセフはイエスの父である
言うまでもなく、ヨセフはイエスの父である。と言ったとたん、「父であるという意味」に疑問が出てくる。「父親とは何か」。母親が母親であるという場合と、父親が父親であるという場合とでは、かなり意味あいが異なってくる。父親は子どもを「自分の子」として認知することによって父親になる。この「認知」ということは、何か特殊な法律用語のように思っていたが、考えてみると、すべての父親は子どもを「認知する」ことによって父親になっているのである。ただ、そこに「法律的手続き」が必要な場合と、必要のない場合があるだけである。イエスの場合は、「法的」ではないが「意志的」に認知された。以下、「父親という存在」について論じ、<講釈>に代えたい。この問題についてはかなり長く取り組んできたので、とうてい一つの説教に盛り込めないので、説教は説教として別に準備することとする。身勝手をお許しいただきたい。
3. 父親になるということ
女性が母親になる場合には、身体的、生理的変化が伴う。ところが、男性が父親になる場合にはそのような変化なしに、「できちゃった」とか、「これはあなたの子どもです」という宣言によって断定される。「身に覚えがある」場合には、納得せざるを得ないが、身に覚えがない場合には問題になる。要するに、男が父親になるということは、女が母親になる場合の比べて、観念的である。
子どもの側からいうと、通常は(例外的なケースも結構あるが、ここではその問題は射程外のより深刻で重要な問題があるので、触れないことにする。)母親は誰かということははっきりしているが、父親が誰かということは不確かである。もっとも、この問題も現在ではDNA検査等によりかなり正確に判断できるようになったが、これも射程外なので、触れないことにする。
4. 父親の定義
父親という存在を法律的に定義すると、「父親とは一親等の親族で子から見て男性の親のことをいう」(Wikipedia)ということになるであろう。この定義において「一親等」というところに「血のつながり」が込められているが、それを現実的な場面で証明するものは、顔貌や仕草が似ているというような「曖昧」なもので、母親のような日々お腹が大きく、重くなるという「否応なしの体験や、「腹を痛めて出産する」というような直接性はない。父親はただ、妻や恋人の体型が日々に変化する様子を見ながら、父親になるということを経験するだけである。その違いは子どもの方にも直感され、母親への思いと父親への思いとは異なってくるのはむしろ当然である。少し極端な言い方をすると、母子関係は生物学的直接性であり、父子関係は文化的間接性であると言えるだろう。
5. 哺乳動物における父親の役割
一部の文化人類学者が近年唱えだした説として、父親という存在は人類が発明した、いわば創造物であるという考えがある。理論としてはまだ十分に検討されていない節もあるが、かなり納得できることでもある。
たとえば、ほとんどの哺乳類動物は出産後、母親が乳で子供を育てることによって母子関係が確立するが、父子関係が認められる種はごくわずからしい。父・母・子という構成による家族関係は哺乳類では決して一般的ではない。そうすると、子どもの成長にとって、父親の役割はほとんど根拠がない。
ヒトにもっとも近い哺乳類であるサルの場合は、種ごとにオスあるいは父親の役割は多様である。ゴリラは一夫多妻制をとり、オスは子どもの面倒もみるが、オランウータンは普段は単独で生活し、オスは子どもの顔さえ知らない。チンパンジーはオス同士で群を作り、メスは大人になると違う群れに移動する。逆にニホンザルはメスが集まって群を作り、オスが群から群へ渡り歩くという。ボスザルですら突然群を離れることがあるという。当然オスは子供のことなど関知していない。
つまり、サルの社会においては、家族およびオスのありようは多彩で決定的なものなど何もないらしい。基本的にはヒトの社会も同様で、世界の各地に分散している諸種族の社会形態や家族形態はサル社会以上にバリエーションがあっても、不思議ではない。男が家族に対して徹底的に無責任な社会もあれば、家族への責任の一切を引き受ける社会もある。人間社会の場合、そこに「理性」が介入するために、一つの社会の中でも、すべて同じ家族形態を維持しているわけではない。父親が一種類しかない社会ではこうした考えは「変わり者」として排除されるかも知れないが、幸か不幸か、このいう社会が増えつつあることも事実である。つまり、明らかに父親は何種類もあり、どういう父親になるかということは、父親と家族との選択と決断の問題である。
6. 近代個人主義における父親
現代における父親という存在の問題に入る前に、少し横道にそれるが、近代的個人のありようを論じた啓蒙思想家ルソーのことに触れておきたい。彼は5人の子どもを名前も付けず、孤児院に捨ててた、と言われている。「エミール」という非常に優れた教育論を書き、子どもという存在を賞賛したルソーが、なぜ、自分の子どもに対し「父親」になりえなかったのか。
ルソーは「人間不平等起源論」の中で類人猿の中でも特にオランウータンを不平等起源以前の理想の人類の姿と考えているようだ。オランウータンは「森の哲学者」と呼ばれ、群を作らず孤立して生きている。発情期だけ適当なメスを探し出し、種付けをしたら、さっさと森に帰ってしまう。ルソーは、オランウータンのこの生活態度こそ、「近代的個人主義」の原点と考えたようである。その場合、オスのオランウータンにとって子どもは個人として生きることを妨げる存在であった。
ここに「近代的個人主義」の抽象性と限界とがある。ルソーは「近代的個人主義」の教師ではあり得ても、「父親」にはなれなかった。わたしたちの課題はこの「抽象的個人主義」を乗り越えて、人間における「共同性」、特にその原点ともいうべき「家族共同体の論理」を求めることである。
7. 人間における社会性
サルにおける「群れ」と人間における「社会」とはその質において大きな飛躍がある。個人倫理、社会倫理、法律、当然の情愛、等々、人間の社会を成り立たせている規律がある。その他にも、衣食住等、生活を支えるための物資の獲得、病気や災害等、危険から身を守るための手だて等々、必要な物と手段とは無限にある。それは自分個人のためというよりも、社会を成り立たせるための必要条件である。それらのことについて、学ぶことが必須の課題となる。それらは母子関係における成長過程において獲得できるレベルを超えている。サル社会では、ある程度はそれは「群れ」の中で鍛えられ、身に付けられるが、それができない場合は群れから追放される。
人間社会においても、原始的段階ではサルと大きな差はなかったであろうが、婚姻関係が確立し、家族という制度が成立すると、それらの社会的機能は家族内に取り込まれ、父親の役割となる。要するに、父親の役割とは、家族の必要を確保し、家族をあらゆる危険から守り、子どもに社会性を与えることとされる。つまり、父親の役割とは社会を前提とし、家庭内にいて社会的機能を代行するものである。従って、父親のあり方は社会の存在様式に依存している。社会が変われば、父親像も変わる。近代化以前の社会においては、力強い、権威的な父親が求められた。そのイメージは「父なる神」と重なり、キリスト教世界においてはローマ教皇を「パパ」と呼ぶことによって、「神─教皇─父親」という権威のラインが形成され、父親像を絶対的なものとした。それは現在でもまだ残っている。
しかし、現実の父親の方は、社会の変化に伴い、当然変化し、祭司的役割、社会性の授与者としての機能、保護者としての立場等々、次々と家庭内における父親の役割は社会へと還元され、ほとんど残されていない状況になっている。父親という存在をその「役割」という点でだけ考えると、ほとんどその役割は家族の必要を稼ぐだけというように限定的なものになっている。それも、最近では「共稼ぎ」が増え、怪しくなってきている。従って、家族内における父親の存在を「役割」というレベルでのみ論じることが、そもそも間違いではなかろうか。むしろ、父親にせよ、母親にせよ、さらには子どもたちにせよ、それぞれ何らかの「役割」をもって家族を構成しているわけではない。むしろ、それぞれがそれぞれの存在として「共生」しているのが家族である。
聖書は人間の根本的ありようとして「人が独りでいるのは良くない」(創世記2:18)と宣言する。これはしばしば夫婦関係を語るのものとして理解されてきた。それはそれで間違いではないが、不十分な理解である。この言葉の厳密な理解は「単独者としての人間」の不完全性を語っているのであって、むしろ重要なことは人間は「共同性において人間である」ということにある。つまり、夫婦関係とは個と個という対(つい)関係であり、厳密な意味では「共同関係」ではない。そこに子が加わってはじめて共同性が成立する。ここでの「良くない」という言葉の意味は、善悪の問題ではなく、完全か不完全かということを意味している。
もし、社会のおける教育機能や保護機能が不十分なとき、父親はそれを補うのは当然であって、むしろ社会におけるそれらの機能が不完全であることが当然で、むしろそこに完全に依存してしまうことの方が無責任であると言わざるを得ない。

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