落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

降臨節第3主日説教 メシアの秘密

2007-12-13 17:11:26 | 説教
2007年 降臨節第3主日 2007.12.16
メシアの秘密  マタイ11:2-11

1. 「わたしがメシアか、あなたがメシアか」
芥川龍之介の「西方の人」に、バプテスマのヨハネの悩みとして、次のような言葉がある。
「彼の最後の慟哭はクリストの最後の慟哭のようにいつも我々を動かすのである。『クリストはお前だったのか、わたしだったのか』」(新潮文庫版 132頁)。芥川が抱いたこのような問題提起はキリスト教界からは出てこない。むしろ、キリスト教信仰はイエスがキリストであり、洗礼者ヨハネはその先駆者であると信じ、そのように主張する。4つの福音書も、多少は疑問を含みながらも、この点については一致している。その意味では、芥川の問題提起はキリスト教界を揺るがさないし、むしろ、だから芥川は聖書に関心を寄せ、イエスを語りながらキリスト者になれなかった「憐れな男」と言って、後は無視する。しかし、この問題はそんなに簡単に処理できるのだろうか。イエスと洗礼者ヨハネとの関係はもっと複雑である。
2. 洗礼者ヨハネとイエス
しかし、そういう前提に立ってしまったら、本日のテキストがもっている根本的な問題は理解できないであろう。ヨハネとイエスとはほぼ同世代で、ヨハネの方が少し年長者であった。イエスがヨハネから洗礼を受けたということは、ヨハネの活動に参加したということを意味している。後に、イエスが独自の預言者活動を始めたときに何人かのヨハネの弟子がイエスの弟子に「転向」しているところを見ると、はじめの頃はイエスもヨハネと共に洗礼を授ける活動をしていたものと思われる。要するに、ヨハネとイエスとの関係はメシアの先駆者とメシアとの関係というよりは、同じような活動をする先輩後輩の関係にある同労者であった。
そのような状況の中で、ヨハネはヘロデに捕らえられ、殺されようとしている。それは、まさに苦難の僕の死である。その時、ヨハネの頭に「ひょっとすると、わたしがメシアかも知れない」という思いがよぎったとしても不思議ではない。自分の死とは「メシアの死」なのか。死ぬこと自体はそれ程問題ではない。むしろ、その死の意味である。その深刻な問いをイエスにぶっつけた。
それに対して、イエスは「イエス」と言ったのか。それとも、「ノー」と答えたのか。本日のテキストでは明らかではない。正直に言って、イエスは答えられなかったのではなかろうか。ヨハネは明確な答えを得ないまま、処刑された。
3. イエスのメシア意識(自覚)
イエスが自分のことをメシアであると自覚していたのか、否かということは、福音書を研究する者にとって謎である。イエスの生き方の重要な点は、「メシア観」などという伝統的な観念によって振り回されなかった。イエスにあった意識はただ「神から遣わされたという自覚」だけで、その自覚から伝統的なメシア観に対してむしろ批判的であった。ただ、生き方としてはイザヤ書が語る「主の僕」の生き方を徹底したということに尽きるであろう。
ところが、ヨハネはメシアの到来を語るという使命に固執していた。その視点から考えると、イエスは彼が考えるメシアとはほど遠かった。ヨハネの基本的姿勢は伝統的なメシア観に立って「メシアを待つ」ということであり、イエスにおいては伝統的なメシア観に吸収される以前の「主の僕」の生き方に倣うということであった。この両者のズレが、本日のテキストに現れている。
ヨハネが獄中からイエスに質問したという出来事が史実であるかどうかは疑問であり、むしろ初期教会におけるヨハネ集団とイエス集団との確執を反映しているものと考える。しかし、ヨハネとイエスとの間にメシア観をめぐって意識のズレがあったことは否定できない。
4. 「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」
イエスにとって、自分がメシアであるか、どうかということは、それ程重要なことではなかった。それ以上に重要なことは、イエスの言葉と行為によって、何が起こっているのかという事実であった。ヨハネの迷いは、彼のメシア観の敗北であり、イエスの突き放したような返事は、ヨハネの迷いを癒やすものであった。「あなたがメシアなのか、わたしがメシアなのか、そんなことどうでもいいではないか。「あなたとわたし」の働きの結果、こういうことが事実として起こっている。それでわたしたちの使命は充分に果たしている」。これがイエスの本当の回答の意味であった。
5. 「わたしにつまずかない人は幸いである。」
「わたしにつまずく人」とは伝統的なメシア観にとらわれ、そこから脱出できない人びとを意味する。どんなに偉大な人間でも、伝統的な観念にとらわれている限り、自由な発想は生まれないし、事実を事実としてみる視力が失われる。
一人の人間を「メシア」とか、「預言者」とか、そのような既成の観念によって見ない。伝統的な偏見や、世論という噂や、マスコミの報道に惑わされることなく、一人の人間をそのままに見るということが重要である。これは何もイエスについてだけ当てはまることではなく、誰に対しても同じことで、その人をその人としてそのままに見て、受け入れることができる人は幸いである。

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