落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>宣教とは

2006-02-07 20:57:52 | 講釈
2006年 顕現後第6主日 (2006.2.12)
<講釈>宣教とは   マルコ1:40-45
1. 福音書編集者の編集方法
福音書記者は決して著者ではなく、編集者である。と言っても、現代の雑誌や論文集の編集者ともかなり異なる。マルコ福音書が最初の書かれた福音書であることには現在ではほとんど異論がない。そして、マルコこそが「福音書」と呼ばれる文学類型を創作したのであり、その意味からも、この箇所で福音書を編集する際の方法について、基本的なことを確認しておくのが適当であろう。(マルコという人物がどういう人物であったのかということには、ここでは触れない。逆にマルコ福音書を編集した人物を「マルコ」と呼ぶ。)
福音書を編集するという作業は、ただ単に他人が創作した諸文書を並べて、一つの文書にするのとはかなり異なる。むしろ「創作」作業に近いとも言える。しかし、福音書の編集作業が創作と異なるのは、福音書の各部分を構成している文書はすべて、原則として編集者が編集する以前に文書あるいは口承伝承として存在したものであった、という点である。編集者の基本的作業はそれらの断片的諸資料を取捨選択し、順序を定めて、一つの文書とするということである。
当然、編集者はそれらの資料を取捨選択する際にある程度明確な編集方針が求められる。と言うより、それがなければ何を取り上げ、何を捨てるのか決定できないだろう。同様に、それらに順序を決める際にも、編集意図が問われる。たとえば、ルカはその編集方針を「わたしもすべての事を初めから詳しく調べておりますので、ここに、それを順序正しく書きつづって」(ルカ1:3)と、述べている。ルカの場合は、この「順序」というのは、彼が考えた「時間的順序」であった。
編集者の手元に至った諸資料は雑多である。内容的にも、また形態も多種多様であり、信頼性の高い資料もあれば、いかがわしいものも含まれている。と同時に、それらの諸資料そのものも、それぞれの伝承過程において、多様な人々の手を経て、「意図や解釈」が加えられている。当然、福音書の記者はそれらの諸資料を福音書の中に採用する際に、それらの意図や解釈と対立する場合もあり、諸資料の意図と解釈と編集者の意図と解釈との調整が必要であった。それがいわゆる「編集句」と呼ばれるものである。また、それぞれの資料を並べる際に、それらを繋ぐために「まとめの言葉」も付け加えられる。だからこそ、「編集句」と「まとめの言葉」に編集者の意図と解釈とが映し出されている。
福音書が福音書であるという主張の根拠は、結果はともかく、編集者は編集者自身の良心に従って、「編集句」や「まとめの言葉」は出来るだけ少なくし、伝承された資料を前面に打ち出し、尊重するという姿勢である。福音書の記者が自分が編集している文書を「聖書」と思っていたかどうかは別として、聖書の民が聖書の言葉に対して「一点一画」もおろそかにしないという伝統(マタイ5:18、ルカ16:17)はここでも生きていたと思われる。ルカはこの点について「わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、御言葉に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねよう」(ルカ1:1-2)としたと述べている。従って、主イエスの言葉と行動に関する資料を編集するという作業は当然非常に慎重であり、特に「書き換え」「付加」「削除」という作業は、強い確信が要求されたことであろう。
2. マルコが受け取った伝承
本日のテキストにおいて、マルコが受け取った伝承は40節から42節までであると思われる。「と思われる」という意味は、43節の「きびしく戒めて」という語句と41節の「深く憐れんで」という語句との組み合わせに問題がある。実は、文献学的分析によると、この「深く憐れんで」という語句に「怒って」という語句がはめ込まれている写本がいくつかある。写本自体の信頼性という事になると、「怒って」のほうが有力である。ともかく、どちらを採用するべきかということについては現存の写本を比較検討する限り、どちらとも言えない。ただ、言えることはもともと「憐れんで」という言葉が用いられているとしたら、それを書き改める必要はないが、逆の場合は十分にあり得る。つまり、このオリジナルの資料の受け止め手がキリスト者である場合、「怒って」という言葉はいかにも不都合であり、信仰的良心に従って「憐れんで」と書き改めたということは納得できる。これをもし、「怒って」の方がオリジナルであるとしたら、43節の「きびしく戒めて」という語句の持つ雰囲気とセットにされる。
次ぎに、43節の「きびしく戒めて」の原意は、「がみがみと叱りつけて」であり、この言葉をどう理解するべきかという問題が起こる。「何も人に話さないように」ということを「きびしく戒めた」のか。あるいは、「自分の身体を祭司に見せよ」ということを「がみがみ言った」のか。いずれにせよ、44節の言葉の内容から見て、この「がみがみと叱りつけて」という言葉とは調和しない。いったい主イエスは何故そんなに不機嫌なのだろうか。もっと優しく、静かに、「社会復帰するための手続きを取りなさい」と言ってもいいではないか。
いずれにせよ、この伝承のオリジナルは、重い皮膚病に犯されていた人が、主イエスのもとに来て「癒してくれ」と頼んだところ、主イエスは彼に手を差し伸べて、その人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち病気は癒された、という出来事である。この伝承には「何時、何処で」ということが不問にされている。ともかく、こういう伝承があった。「伝承があった」などという表現はいかにも、冷たい。おそらく、今はキリスト者になった誰かの体験談があったのだろう。
ここで「重い皮膚病」と表現されている病気は非常に厄介である。感染力は弱いのだが、いったん感染すると、その結果は大きい。とくに、この病気に対する特効薬が開発される以前はほとんど不治の病と考えられ、非常に恐れられ、対策としては「隔離」という方法しか考えられなかった。それは聖書の社会におけるだけではなく、日本社会においても同様である。その結果、この病気については病気そのものというよりも、社会問題であった。これは現代でもなお残っている重大な社会問題である。従って、この「重い皮膚病」にかかった人が幸いにも病気が癒されても、社会復帰するためには非常に面倒な手続きが要求された。その意味では、主イエスがこの病人を癒す際に「「手を差し伸べて、その人に触れ」て癒したという行為は注目に値する。主イエスが病人を癒す際に「触れて」癒しているのは珍しい行為である。
主イエスが重い皮膚病の人を癒したという、この体験談を聞いたとき、当然、その人は病気が治ったことを誰にでも明確に証明することが出来るように、モーセの律法に従って祭司に身体を見せに行っただろう、と考えた。それが、社会復帰のための当然の手続きである。この「重い皮膚病」とは祭司に見せて証明してもらわなければ「本当に癒された」ということにはならないからである。
このいわば当然の手続きを、わざわざ主イエスの口に押し込んで、語らせているのには、明らかに明確な意図が見え隠れする。つまり、主イエスはモーセの律法にも忠実に従う人間であった、ということを主張したいのである。というよりも、主イエスはモーセの律法に忠実な人であるから、当然こうしたであろうという「信念」があったものと思われる。
ともかく、マルコに至ったときのこの伝承には、この「編集」が既に付け加えられていた。マルコはこの「編集」を無視することは出来ない。この部分での主イエスの「不機嫌さ」や「怒り」には編集者マルコの感情が反映しているのかも知れない。「このことを誰にも言うな」ということは、十分にあり得る(7:36)。そこで、マルコは45節の言葉を付け加える。というより、45節の言葉を語るためにこの伝承を取り上げたのであろう。明らかに、44節を語る人間と45節を語る人間との思想的地盤は異なる。結果として、病気を癒された人は「祭司に身体を見せた」のか、見せなかったのかはっきりしない。ただ、はっきりしていることは、45節の事態である。
3. 「言い広め始めた」
さて、一寸ややこしいことではあるが、何度も繰り返して読むと、45節前半の「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広げ始めた」という表現は、何かしらもたもたしている。「告げ」という言葉と「言い広げ」という言葉が重なっている。口語訳聖書では「しかし、彼は出て行って、自分の身に起こったことを盛んに語り、また言い広めはじめた」と訳されている。ここでも「盛んに語り」という言葉と「言い広め」という言葉が重なっている。文語訳聖書も同様である。で「されど彼はいでてこの事を大いに述べ伝え、あまねく弘めはじめたれば」となる。問題をもう少し明確にするために永井訳を参照すると、「しかるに彼は出で来たりて、言を大いに宣べ、また言い触らしはじめたり」とある。
つまり、ここの原文には、「ロゴスを宣べ伝える」ということと、「起こった出来事を言い触らす」ということとが平行して語られている。宣教とはただ単に「一身上の体験を語る」ことで終わってはならない。確かに「身の上話」であるが、その身の上話が、「ロゴス」としてのイエスを語ることにおいて、宣教になる。
福音とは、主イエスの行為と言葉であり、それを語ることが宣教である。しかし、その福音は、「一つの思想」として、あるいは「深遠な言葉」ではなく、わたしの身の上に起こったことである。この「わたしの身の上に起こったこと」を抜きに、福音は語れないし、そんな言葉には誰も魅力を感じない。
4. 「宣教」の特権化批判
ここで、注目すべき点は、後の教会において最重要課題とされた「宣教」という言葉が用いられていることである。主イエスの直接の弟子たちが、宣教活動をする前に、この独りの無名の人、重い皮膚病を癒された一人の人が、主イエスから止められているにも拘わらず、主イエスのことを無視して、語り始めたことが「宣教活動の始まり」であった、ということをマルコは強調している。
わたしが日本聖公会の聖職になって驚いたことは「説教」という行為が、一般信徒には許されていないことであった。説教は聖職にだけ、しかも執事は主教の許可のもとで初めて説教が出来る。聖書の言葉を自分勝手に解釈してはならないという教育的配慮から、説教は聖職にだけ許されている。もちろん、「説教」と「宣教」とは異なる。しかし、マルコが福音書を書いた頃の教会では(パウロの手紙を見ると)「宣教」という言葉は「説教」とほとんど同義語に用いられている。ロマ書2:21に見られる。「(あなたは)盗むなと説きながら、盗むのですか」とパウロはユダヤ人キリスト者を批判している。ここで「説きながら」という言葉は「宣教する」である。つまり、ここでは明らかにこの言葉は「説教」という意味に用いられている。同じようにコリントの信徒への手紙Ⅱ4:5では「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」とある。この言葉も教会の礼拝における説教を想定している。
マルコはこの男の行為こそまさに宣教であり、それは使徒たちの宣教活動に先行するものであったことを語ることによって、宣教という行為の特権化を批判している。

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