落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>離婚問答 マルコ10:2-9

2012-10-01 08:17:10 | 講釈
S12T22(L)
2012年10月7日聖霊降臨後第19主日(特定22)
<講釈>離婚問答 マルコ10:2-9

1.はじめに
9月から月に一度の礼拝奉仕となり、今年度(マルコの年)の説教は,今回ともう1回11月4日聖霊降臨後第23主日の2回だけとなった。11月4日のテキストはマルコ12:28-34で、ここでは律法学者を相手に律法問題が取り上げられている。
マルコ福音書をイエスの論争および論争相手という視点で読み直してみると、10:1を分岐点としてそれ以前とそれ以後とではムードがガラリと変わる。2:18から8:10ではほとんどがイエスと弟子たちとが安息日を軽視しているとか、ユダヤ人の慣習を守らないなどもっぱらイエスと弟子たちの行動が批判の対象とされるが、それらの批判に対してほとんど無視するか、あるいは「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」(7:9)と軽くいなしている程度である。8:11-13では「議論をしかけた」ファリサイ派の人々を「そのままににして」立ち去っている。つまり完全に無視している。その上で弟子たちに対しては「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(8:15 )と戒めている。要するに議論に乗るなという姿勢である。
10:1の言葉は明らかにカファルナウム(9:33)からエルサレムへの旅を始められたことを示している。そして、その冒頭の事件が今日のテキストである。ここでは初めてファリサイ派の人々の挑戦を受けている。
以下、11章でエルサレムに到着後、神殿の境内で祭司長や律法学者、長老たちからの尋問(権威問題)を受け(11:27)、イエスもそれを堂々と論陣を張っている。次に「ファリサイ派やヘロデ党」の人々から税金問題で論争を挑まれ(12:13)、続いて復活についてサドカイ派の人々から議論をふっかけられている(12:18)。そして最後に真打ち律法学者から、「最も重要な掟」についての問題(12:28)といわゆる「ダビデの子をめぐるメシア論」(12:13)が主題となる。この問題についての討議を見て「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」(12:37)とされる。その意味ではイエスは律法学者たちを論破したと言えるであろう。そこでイエスは弟子たちに対して「律法学者に気を付けなさい」といわば勝利宣言をしている(12:38)。

2.ファリサイ派とは何か
という訳で、残り2回で律法の問題を取り上げたい。本日の論争の相手はファリサイ派の人々でテーマは結婚と離婚問題である。先ず議論に入る前にいくつかの問題を片付けておこう。先ずファリサイ派とは何か、そこには当然キリスト教とファリサイ派とが生きている時代背景が含まれる。
先ず、一体ファリサイ派と呼ばれる集団とは何か。実は福音書で述べられている「ファリサイ派」の「ファリサイ」という単語の意味も不明瞭で、ファリサイ派の発生の歴史も不明である。ともかく紀元前100年頃には国家権力をも左右するほどの大勢力になっていたらしい。しかし明瞭な形を持った組織とは思われないが、一種の「在家の宗教運動」(田川建三『イエスという男』109頁)のようなものであったと思われる。つまり神殿経営等にかかわる少数の貴族や大資産家など富裕層と、いわゆる「地の民(アム・ハー・アレツ)と呼ばれる貧困層との間の大多数の中間層がファリサイ派と呼ばれる人々であった。つまり大雑把に言って国民のほとんどが「ファリサイオイ」と呼ばれる人々であったと言えるであろう。日本語の聖書で「ファリサイ派」と呼ばれたとしてもいわゆる派閥の「派」ではないが、便宜的に「ファリサイ派」と呼ぶことにする。彼らは安息日の規定やその他神殿への義務等、律法を忠実に厳守することが神からの祝福の条件であり、永遠の命につながることであると固く信じ、そのように生きた。そのような社会的義務を果たせる程度の生活の余裕を持っている人々で、彼らはそれらの義務も果たせない、その日暮らしの人々を穢れた人々として軽蔑していた。
『イエスとパリサイ派』(教文館)の著者ボウカーはファリサイ派の成立の歴史や名称等について確定的なことを述べるのは「現在のところほとんど不可能である」(19頁)という。その理由として、あまりにも証言が少なすぎること、それとその逆に第2の理由として、あまりにも多すぎること、と述べている。従って、ここでは福音書に現れている限りでの時代背景としてのファリサイ派に限定しておく。
イエスの時代のファリサイ派は律法の解釈をめぐってラビ・ヒレルを師とするヒレル派とラビ・シャンマイを師とするシャンマイ派とが激しく対立していた。特に、異邦人改宗者について、こういう記録がある。「シャンマイは短気で、わたしたち(ユダヤ教への改宗者)を認めようとしないが、ヒレルはわたしたちを優しく神の翼の下にいざなう」(バビロニア・タルムード、シャバット31a,教文館版聖書大事典 575頁)。つまり、シャンマイ派は民族的伝統を重んじ外国人に対してかなり差別的である。それに対してヒレル派はリベラルで外国人に対してもかなり寛容であったようである。従ってヒレル派はローマ帝国に対しても決して敵対的ではなかった。それでローマによるエルサレムの陥落・破壊(70年)後も生き残ることができた。私たちが普通ファリサイ派という場合、そのほとんどはヒレル派のイメージである。シャンマイ派はエルサレムの陥落と共に歴史から消え、一部は熱心党というもっと過激なセクトへとつながっていったと思われる。
シャンマイ派とヒレル派とは、律法のほとんどすべての箇条について激しく論争した。彼らの対立はついに武力闘争にまで発展したといわれている。それがいわゆる「18のハラコート(教え)の事件」と呼ばれるものである。この論争はユダヤ人が異邦社会において生活する上での生活習慣に関する論争で、12の食物規定(異邦人のパン、チーズ、ぶどう酒、酢、オリーブ油など)とその他の6箇条(異邦人の言語等)の禁止項目をめぐっての論争であった。勢力的にはヒレル派が優勢であったが、シャンマイ派は議場を「剣と槍」とをもって支配してヒレル派を排除して、自分たちの主張を通してしまった。その結果、ファリサイ派としての公式見解はかなり厳格な規定となってしまった。
シャンマイ派の律法解釈の基本的な姿勢は、律法は細部を厳格に遵守することによって全体が守られるという立場であった。その意味では新約聖書の中ではヤコブなどがこの立場に近いと思われる(ヤコブ2:10)。それに対してヒレル派は律法の中心的なもの(意味)を重視することによって律法は守られるという立場であった。その中心的な意味とは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない。」であった。この点については11月の説教で改めて取り上げる。
ヒレル派とシャンマイ派との論争が最も鮮明になるのが、本日取り上げられている離縁問題である。

3.ユダヤ人にとっての十戒
一般にユダヤ人は非常に議論好きな民族と言われるが、いわばそれは当然のことで、彼らは全生活をかけて聖書に書かれている律法に忠実であろうとする。つまり彼らの生活を支配しているのは言葉である。もっと簡単にいうと神の言葉に忠実に生きるということが生きる目的であり、救いであり、神からの祝福を得る道だと固く信じている。その神の言葉が手に取れるような形で目の前に置かれているのが聖書であり、それが凝縮されているのがモーセの律法と呼ばれている十戒である。
なぜ、十戒を神の言葉であると言えるのか。これについての答えはない。イスラエルの人々は十戒の内容をいろいろ吟味して、成る程これは神の言葉であると認識し、受け入れたわけではない。むしろ脅迫されて、神の言葉として受け入れさせられた。その意味では十戒がイスラエルに与えられた事情をもう少し詳細に確認しておく。

4.十戒授与の情景
十戒が書いてあるのは出エジプト記の第20章であるが、その前の19章では十戒授与の情景が次のように描かれている。
先ずモーセが単独でシナイ山に登り神からのメッセージを受ける。ヤハウェは民に掟を与えることを予告し、「もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、わたしの宝となる」と宣言される。それでモーセは下山し、民にヤハウェの言葉を伝え、受け入れるか拒否するか決断を促す。この段階では民は十戒の内容を知らない。明らかでないヤハウェとの契約を受け入れるか否かと迫り、しかももし受け入れないとしたら、ヤハウェの保護は保障されず、いわば荒野に放置される。つまりそれは死を意味する。民にとっては選択の余地はあるようで実際には白紙委任状である。ともかく民はほとんど強制的に近い状況で受け入れることを承諾する。そこでモーセは民に三日間の心身、衣服の清めの期間を持って、山の麓に集合し待機することが命じ、再び山に登る。すると山は「雷鳴と稲妻と厚い雲」に包まれ、「山全体が激しく震える」。民はその恐ろしさに震える。こういう恐ろしい状況の中でヤハウェの言葉が語られる。その内容が十戒である。全てのヤハウェの言葉が語られた後、それらの言葉は2枚の掟の板に「神の指で記され」、モーセに手渡される(31:18)。ここで注意しなければならないことは、山の上の状況はヤハウェとモーセとしか分からないことであること、もう一つはその時の2枚の石の板はモーセが下山した時に破壊されてしまった(32:19)ということである。もっとも、十戒が記された2枚の石板は再発行される(34:1-5)。
以上が十戒授与の情景である。これらの出来事は全て「もし、わたしの声に聞き従うならば」という人間の応答によって成立している。逆に、「もし」人間があの時、これを拒否したらどうなる。ハッキリしていることは「死」である。繰り返すが「生か死か」という選択は一応選択の形を取っているが本質的に選択の余地はなく、強制に他ならない。つまり十戒に対しては人間は「よく分かった上で、自由意志によって」で受け入れたのではない。つまりユダヤ人として生きるということに伴う無制約的契約である。この物語が語る重要なポイントは、十戒とは神から扶養された人間としての「根源的約束事」であるという点である。そんな約束したことがないというような意志のレベルを超えた人間としての生そのもに属する契約である。ユダヤ教が全人類に語るメッセージは人間は「根源的約束」を持っているということである。それを十の戒めとして言葉化したのが十戒である。それは実際に生きる過程において、十戒の内容は人間の生の「当たり前の姿」を描いているのだということが理解される。
ここで一寸重要な脱線をする。イエスに対する信仰も実はよく分かって受け入れたわけではない。私たちはイエスのことも、罪のことも、義のことも、愛のこともよく分からないうちに「イエスはキリスト・神の子」という信仰を受け入れ、それに従って生きていることによって、それが受け入れるにたる真実だということ確信しているのである(1テモテ1:15)。

5.イエスの十戒理解
さてイエスはこの点に関しては一人のユダヤ人である。イエスは社会規範としての律法の核心的な部分に「神の言葉」あり、その言葉を現実生活の中で運用する場合に濃淡様々な規定があるということを承認している。ただ、この核心的な「神の掟」とその掟を現実の生活の中で生かす周辺的な「人間の言い伝え」とを混同してはならないという立場に立っている(マルコ7:8)。その核心的な部分とはモーセの十戒を指している。
この点についてはマルコは面白い出来事を記録している(10:17-22)。この出来事の中で金持ちの青年はイエスに「善い先生」と呼びかけているが、興味深いことに「なぜ、わたしを『善い』というのか」と反論し、「善い」と呼ばれるに相応しいのは神おひとりしかいいないと宣言し、 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と語られた。ここで述べられている言葉こそ十戒の第4戒から第10戒そのものである。つまりイエスは十戒こそが「神の掟」そのものであると語られているのである。問題はその神の掟を受け取って、どう生きるかということである。彼は十戒の言葉を一つも欠けることなく誠実に実行してきた。しかしイエスはそれでは「あなたに欠けているものがある」(マルコ10:21)といわれる。彼は書かれている十戒を忠実に実行した。しかし、神が求めて折られるのは書かれた十戒の言葉の遵守ではなく、十戒に表現されている人間の心の実践である。人間の生き方の全てはその一点から見なければならない。

6.「モーセは何を命じたか」
さて今日の出来事はファリサイ派の人々がイエスに「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と質問するところから始まる。先ず注目したい点は主語、つまり主題は「夫が妻を離縁すること」である。現代ならば夫と妻との婚姻関係を解消することということであろうが、「夫が妻を離縁すること」という言い方に当時の夫婦関係が垣間見られる。この問題についてはこれ以上深入りしない。
ファリサイ派の人々の質問に対して、イエスは「モーセはあなたたちに何と命じたか」と逆に質問している。「モーセの言葉」というとすぐに十戒を思い浮かべるが、十戒では結婚のことも離縁のこともまったく触れていない。家庭生活に関する戒めとしては「父と母とを敬え」とか「姦淫してはならない」と述べられているが、結婚せよとか、離婚してはならないとうことが述べられている。その意味で述べられていないということからいろいろと議論が始まる。
先ず、ここで問題になっている「モーセの言葉」は十戒ではなく申命記24:1の言葉を指している。ここではイエスはそれを「モーセの言葉」、しかも不本意なモーセの言葉だという。つまり限定された状況の中で必要に迫られて発した言葉である。なぜ、モーセはそういうことを語ったのか、その背景を理解しなければならない。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」という。この言い方において、イエスはモーセのこの言葉を「神の言葉」だとは思っていないことが伺える。もちろん、ここでそういうことも「神の言葉」だという理論も成り立つ。その意味では、使徒パウロの言葉も神の言葉であるし、福音書も神の言葉である。そういうことを言い出したら、私の今日の言葉だって「説教」として講壇の上から語っているのであるか「神の言葉」だと言えないこともない。
この点でマルコは面白いエピソードをレポートしている(7:1-13)。イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わないのを見てファリサイ派の人々が「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と詰問している。それに対してイエスは「(何故)あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守るのか」と反論している。この文脈の中でイエスは面白い実例をあげている。 モーセは『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」。つまり十戒の一つよりも人間の言い伝えを優先している。このことを総括して「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」と批判している。
このエピソードでは十戒を神の言葉といい、食前に手を洗うというような慣習やコルバンというような神への捧げ物に関する規定も「人間の言い伝え」だという。
イエスは神の言葉と「人間の言い伝え」とを区別している。さらに聖書の中の言葉といえども、「モーセの言葉」と十戒とを鮮明に区別している。

7.結婚とは
さて離婚問題に戻ろう。離婚という出来事には何とはなしに「後ろめたさ」が伴う。最近はそれも薄れ「バツイチ」などという軽い言葉で考える傾向があるが、やはり深刻さは否めない。つまり本来あるべきでない出来事である。従って離婚という問題だけを取り上げて論じるのでは不十分というより不可能なことで、先ず結婚とは何かということから考えなければならない、というのがイエスの考え方であるようだ。
イエスは彼らの離婚問題に関する質問に答えようともせず、いきなり結婚について語り始める。考えてみると、結婚という出来事は非常に不思議である。
しかもいきなり「天地創造の初めから」である。十戒も通り越し、モーセの結婚も通り越し、アブラハム、イサク、ヤコブ等の族長たちの結婚も通り越し、ノアの家族のことも通り越し、天地創造の初めまで遡る。考えてみると人間が人間である限り、何時でも、どこでも男と女がいる限り結婚はなされてきた。形は時代により民族により多種多様である。しかし結婚という営みは延々と続けられてきた。もし結婚ということがなければその民族はそこで絶えてしまう。それら多様な結婚の形を貫いて共通する結婚とは何か。イエスはそれを人類の祖、アダムとエヴァの結婚をモデルとする。それはイエス自身の言葉というよりも聖書の受け売りである。結婚とは「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:21-25)ことだという。当然これは「一体となる」という現実であるから、主語を「女は」としても通じる出来事である。結婚とは男と女がそれぞれ両親から離れて、二人が一体になること、これ以下でもこれ以上でもない。これは神がそう言ったからそうだというわけでもない。まさに現実の人間の結婚という出来事そのものを言葉で表現したことである。イエスは徹底的にこの視点に立ち、この視点から語る。

8.「相応しい相手」
さて、ここで言う「一体になる」という言葉は直訳すると「一つの肉体になる」という意味である。結婚の秘儀はここにある。生まれも育ちも全然異なる2人の人間、人格としては完全に2人でり、二つの体でありつつ同時に一つの体になるということは一体どういうことであろう。理屈では説明が付かない。しかしどの時代、どの社会、どの民族においても結婚という出来事の内実はここにある。婚姻関係とはこういう関係であるべきだというのではない。それは律法主義、法律主義、形式主義への入口である。そうではなくて、そういう事柄のことを結婚という。この関係は他のいかなる人間関係とも異なる特殊な関係であるが、同時に全人類に普遍的な関係でもある。その関係によって人類は子孫を産みだし、社会を構成する。
聖書におけるアダムとエヴァとの結婚の場面をもう少し丁寧に読むと、先ず神がアダムに「人が一人でいるのは良くない」と宣言するところから始まる。そしてアダムに自分に相応しい相手を探すように命じる。アダムは既に存在している全ての動物を見る。しかしそこには自分に相応しい相手がいない。ここが第1に注目すべき点。結婚の相手はある限られた範囲の中から一人を選ぶという行為ではない。見合い写真を10枚ほど見せられて、この中から選べというのではない。その中に自分に相応しい者がいるとは限らないし、多くの場合いない。そこで神はアダムを深い眠りに誘い、アダムの肋骨の一つからエヴァを創り出す。ここが結婚ということを考える場合の非常に重要なポイントである。結婚の相手とはその人のためだけに、神が特別に創り出した存在である。だからアダムはエヴァを見たとき、「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから」(2:23)と叫ぶ。私たちは自分自身の結婚を振り返り、そういう風に思ったことがあるであろうか。私はたち結婚相手のことを考えるとき「私が選んだ相手」、ときには「私選んだやった相手」、あるいは「誰かから押しつけられた相手」と考えているのではなかろうか。
女は男の肋骨から創られたという神話は、女を男に付属するもの、女は男に従う者というように解釈されてきた。パウロにもそういう傾向がある(1コリント14:33-36)。しかし、この解釈はその時代の男女理解を反映している。むしろこの神話は男も女もお互いにその人に「合う助ける者」として特別に創られた者と理解すべきであろう。ついでにもう一つ付け加えておくとこの「合う助ける者」、口語訳では「ふさわしい助け手」と訳されていたが、元々の意味は「向かい合う相手」、「顔と顔とを向かい合わせる者」という意味である。向かい合うのに上下関係はない。

9.「一体になる」
次に、「一体となる」とはどういうことであろうか。もちろん、これは肉体に関することである。直訳すると「一つの肉体になる」ことである。この関係をもう少し具体的に、体験的に語っている表現が、次の言葉である。多くの場合、この言葉が見落とされている。「人と妻とは二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」。このことについては、もうこれ以上説明を要しないと思う。ここまで露骨に言う必要はないと思うが、聖書はあえてそのことを書く。要するに結婚とは「二人とも裸であったが恥ずかしがりはしない」という関係である。「恥ずかしい」と思うこと、あるいは「恥ずかしくない」と思うことは精神の働きである。肉体の関係が精神に及ぶ。これが夫婦というものである。聖書はこの関係の成立の根拠は神によるという。

10.離婚について
さて、ここまでが聖書が語る結婚論である。こうして読み返してみると、聖書の結婚論は十戒にはないが十戒に匹敵するような権威がある。いやむしろ、それは十戒と同じ構造を示してる。少なくともイエスにおいては十戒と同等の「神の言葉」である。しかし、神がこう言われたから、結婚についてはこう考えるべきだというのでは決してない。それは悪しき律法主義である。人間が人間として「当たり前に生きる」、そのことを文章化したのが律法であり、創世記における結婚神話である。人間が現実に行っている結婚という出来事の本質そのものが「神の言葉」になっている。イエスにおいて神の言葉とはそれである。さて、ここまで述べた上でイエスはいよいよ離婚ということについてのイエス自身の「意見」を語る。
「従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない」。この離婚の禁止命令は旧約聖書に根拠は見出されない。おそらくイエス独自の言葉であろう。パウロによるとこの言葉の根拠はイエスにあるという。「既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です」(Ⅰコリント7:9)。ついでに言うと、パウロにとって伝承されたイエスの言葉は神の言葉として受け止めている。





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