次の主日の説教をお送りします。昨日お送りした<講釈>はこの説教を準備するための舞台裏です。ほとんど2ヶ月以上の期間、この説教に取り組んでいました。その中でエマニュエル・レヴィナスというユダヤ人哲学者が書いた『タルムード四講話』という書物との出会いは衝撃的でした。
S12T22(S)
2012年10月7日聖霊降臨後第19主日(特定22)
説教 「モーセは何を命じたか マルコ10:2-9」
1.はじめに
9月から月に一度の礼拝奉仕となり、今年度(マルコの年)の説教は今回ともう1回11月4日聖霊降臨後第23主日の2回だけとなった。11月4日のテキストはマルコ12:28-34で、ここでは律法学者を相手に律法問題が取り上げられている。今日はファリサイ派の人々から離婚問題で問答をしかけられている。なぜマルコは離婚問題を取り上げているのだろうか。勿論、離婚問題が人生の大問題というわけではないが、実は離婚について考えるということは結婚ということを考えることでもある。マルコはイエスの結婚観を書きたかったのだと思われる。言うまでもなく、結婚という現実は社会における全ての人間関係の基本であり、社会問題の全ては結婚という現実に凝縮されている。結婚するかしないかは別として結婚ということを真剣に考えていない人は、社会についても真剣に考えていないということでもある。従ってイエスがファリサイ派の人々とこの問題で話し合ったということは見逃せない重要な問題が含まれている。
2.「モーセは何を命じたか」
ファリサイ派の人々から「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねられてイエスは「モーセはあなたたちに何と命じたか」と逆に質問している。これが実生活の上で起こるさまざまな問題にぶっつかったときのユダヤ人の普通の姿勢である。それに対してファリサイ派の人々は「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えている。これも当然の答え。確かにモーセはそう命じている(申命記24章)。それに対して、イエスは「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」という。つまりイエスはこの規則が定められた歴史的背景を指摘している。イエスの言葉にはこの規定は人間のあるべき姿を語っているものではなく、一種の困った状況に対処する問題処理規定にすぎないという意味が込められている。しかしガリ祭派の人々の間ではこの規定をめぐって議論し尽くされている。そかも、その議論の過程をほとんどのユダヤ人が熟知していることであった。普通、こういう場合は、より上位の法律に戻って解釈し直すところであるが、困ったことにモーセの十戒には離婚規定はもちろんのこと結婚についての戒めもない。というわけで、イエスの元に問題が提起されたのである。
そこで先ず問題になっている「モーセの言葉」とは何かということである。イエスはあっさりと申命記24:1の言葉を、それではないと否定してしまっている。つまりそのモーセの言葉はまさにモーセの言葉であって神の言葉ではない。それは「人間の言い伝え」に類する言葉である(7:1-13)。
3.十戒について
さて、それではイエスにとって「神の言葉」とは何か。この点について興味深い出来事が本日のテキストのすぐ後に記されている。一人の金持ちの青年がイエスの元に来て膝まずき、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねる(10:17-22)。するとイエスは問いに答える前に、「なぜ、わたしを『善い』というのか」と言い、『善い』と呼ばれるに相応しいのは神おひとりしかいいないと宣言し、 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と語られた。ここで述べられている言葉こそ十戒の第4戒から第10戒である。
つまりこの出来事を通して分かることは、イエスは十戒こそが「神の戒め」そのものであると考えているのだと思われる。従って、結婚問題にせよ離婚問題にせよ十戒はどう命じているのか。ところが困ったことに十戒では結婚のこと、離婚のことに触れていない。「人は結婚すべし」とか「結婚したものは離婚してならない」というような戒めはない。こういう場合どうしたらいいのであろうか。これが今日の課題である。
4.結婚とは
さて離婚問題に戻ろう。離婚という出来事には何とはなしに「後ろめたさ」が伴う。最近はそれも薄れ「バツイチ」などという軽い言葉で考える傾向があるが、やはり深刻さは否めない。つまり本来あるべきでない出来事である。従って離婚という問題だけを取り上げて論じるのでは不十分というより不可能なことで、先ず結婚とは何かということから考えなければならない、というのがイエスの考え方であるようだ。
イエスは彼らの離婚問題に関する質問に答えようともせず、いきなり結婚について語り始める。考えてみると、結婚という出来事は非常に不思議である。
しかもいきなり「天地創造の初めから」である。十戒も通り越し、モーセの結婚も通り越し、アブラハム、イサク、ヤコブ等の族長たちの結婚も通り越し、ノアの家族のことも通り越し、天地創造の初めまで遡る。考えてみると人間が人間である限り、何時でも、どこでも男と女がいる限り結婚はなされてきた。形は時代により民族により多種多様である。しかし結婚という営みは延々と続けられてきた。もし結婚ということがなければその民族はそこで絶えてしまう。それら多様な結婚の形を貫いて共通する結婚とは何か。イエスはそれを人類の祖、アダムとエヴァの結婚をモデルとする。それはイエス自身の言葉というよりも聖書の受け売りである。結婚とは「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:21-25)ことだという。当然これは「一体となる」という現実であるから、主語を「女は」としても通じる出来事である。結婚とは男と女がそれぞれ両親から離れて、二人が一体になること、これ以下でもこれ以上でもない。これは神がそう言ったからそうだというわけでもない。まさに現実の人間の結婚という出来事そのものを言葉で表現したことである。イエスは徹底的にこの視点に立ち、この視点から語る。
5.「相応しい相手」
さて、ここで言う「一体になる」という言葉は直訳すると「一つの肉体になる」という意味である。結婚の秘儀はここにある。生まれも育ちも全然異なる2人の人間、人格としては完全に2人でり、二つの体でありつつ同時に一つの体になるということは一体どういうことであろう。理屈では説明が付かない。しかしどの時代、どの社会、どの民族においても結婚という出来事の内実はここにある。婚姻関係とはこういう関係であるべきだというのではない。それは律法主義、法律主義、形式主義への入口である。そうではなくて、そういう事柄のことを結婚という。この関係は他のいかなる人間関係とも異なる特殊な関係であるが、同時に全人類に普遍的な関係でもある。その関係によって人類は子孫を産みだし、社会を構成する。
聖書におけるアダムとエヴァとの結婚の場面をもう少し丁寧に読むと、先ず神がアダムに「人が一人でいるのは良くない」と宣言するところから始まる。そしてアダムに自分に相応しい相手を探すように命じる。アダムは既に存在している全ての動物を見る。しかしそこには自分に相応しい相手がいない。ここが第1に注目すべき点。結婚の相手はある限られた範囲の中から一人を選ぶという行為ではない。見合い写真を10枚ほど見せられて、この中から選べというのではない。その中に自分に相応しい者がいるとは限らないし、多くの場合いない。そこで神はアダムを深い眠りに誘い、アダムの肋骨の一つからエヴァを創り出す。ここが結婚ということを考える場合の非常に重要なポイントである。結婚の相手とはその人のためだけに、神が特別に創り出した存在である。だからアダムはエヴァを見たとき、「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから」(2:23)と叫ぶ。私たちは自分自身の結婚を振り返り、そういう風に思ったことがあるであろうか。私はたち結婚相手のことを考えるとき「私が選んだ相手」、ときには「私選んだやった相手」、あるいは「誰かから押しつけられた相手」と考えているのではなかろうか。
女は男の肋骨から創られたという神話は、女を男に付属するもの、女は男に従う者というように解釈されてきた。パウロにもそういう傾向がある(1コリント14:33-36)。しかし、この解釈はその時代の男女理解を反映している。むしろこの神話は男も女もお互いにその人に「合う助ける者」として特別に創られた者と理解すべきであろう。ついでにもう一つ付け加えておくとこの「合う助ける者」、口語訳では「ふさわしい助け手」と訳されていたが、元々の意味は「向かい合う相手」、「顔と顔とを向かい合わせる者」という意味である。向かい合うのに上下関係はない。
6.「一体になる」
次に、「一体となる」とはどういうことであろうか。もちろん、これは肉体に関することである。直訳すると「一つの肉体になる」ことである。この関係をもう少し具体的に、体験的に語っている表現が、次の言葉である。多くの場合、この言葉が見落とされている。「人と妻とは二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」。このことについては、もうこれ以上説明を要しないと思う。ここまで露骨に言う必要はないと思うが、聖書はあえてそのことを書く。要するに結婚とは「二人とも裸であったが恥ずかしがりはしない」という関係である。「恥ずかしい」と思うこと、あるいは「恥ずかしくない」と思うことは精神の働きである。肉体の関係が精神に及ぶ。これが夫婦というものである。聖書はこの関係の成立の根拠は神によるという。
7.離婚について
さて、ここまでが聖書が語る結婚論である。こうして読み返してみると、聖書の結婚論は十戒にはないが十戒に匹敵するような権威がある。いやむしろ、それは十戒と同じ構造を示してる。少なくともイエスにおいては十戒と同等の「神の言葉」である。しかし、神がこう言われたから、結婚についてはこう考えるべきだというのでは決してない。それは悪しき律法主義である。人間が人間として「当たり前に生きる」、そのことを文章化したのが律法であり、創世記における結婚神話である。人間が現実に行っている結婚という出来事の本質そのものが「神の言葉」になっている。イエスにおいて神の言葉とはそれである。さて、ここまで述べた上でイエスはいよいよ離婚ということについてのイエス自身の「意見」を語る。
「従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない」。この離婚の禁止命令は旧約聖書に根拠は見出されない。おそらくイエス独自の言葉であろう。パウロによるとこの言葉の根拠はイエスにあるという。「既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です」(Ⅰコリント7:9)。ついでに言うと、パウロにとって伝承されたイエスの言葉は神の言葉として受け止めている。
S12T22(S)
2012年10月7日聖霊降臨後第19主日(特定22)
説教 「モーセは何を命じたか マルコ10:2-9」
1.はじめに
9月から月に一度の礼拝奉仕となり、今年度(マルコの年)の説教は今回ともう1回11月4日聖霊降臨後第23主日の2回だけとなった。11月4日のテキストはマルコ12:28-34で、ここでは律法学者を相手に律法問題が取り上げられている。今日はファリサイ派の人々から離婚問題で問答をしかけられている。なぜマルコは離婚問題を取り上げているのだろうか。勿論、離婚問題が人生の大問題というわけではないが、実は離婚について考えるということは結婚ということを考えることでもある。マルコはイエスの結婚観を書きたかったのだと思われる。言うまでもなく、結婚という現実は社会における全ての人間関係の基本であり、社会問題の全ては結婚という現実に凝縮されている。結婚するかしないかは別として結婚ということを真剣に考えていない人は、社会についても真剣に考えていないということでもある。従ってイエスがファリサイ派の人々とこの問題で話し合ったということは見逃せない重要な問題が含まれている。
2.「モーセは何を命じたか」
ファリサイ派の人々から「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねられてイエスは「モーセはあなたたちに何と命じたか」と逆に質問している。これが実生活の上で起こるさまざまな問題にぶっつかったときのユダヤ人の普通の姿勢である。それに対してファリサイ派の人々は「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えている。これも当然の答え。確かにモーセはそう命じている(申命記24章)。それに対して、イエスは「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」という。つまりイエスはこの規則が定められた歴史的背景を指摘している。イエスの言葉にはこの規定は人間のあるべき姿を語っているものではなく、一種の困った状況に対処する問題処理規定にすぎないという意味が込められている。しかしガリ祭派の人々の間ではこの規定をめぐって議論し尽くされている。そかも、その議論の過程をほとんどのユダヤ人が熟知していることであった。普通、こういう場合は、より上位の法律に戻って解釈し直すところであるが、困ったことにモーセの十戒には離婚規定はもちろんのこと結婚についての戒めもない。というわけで、イエスの元に問題が提起されたのである。
そこで先ず問題になっている「モーセの言葉」とは何かということである。イエスはあっさりと申命記24:1の言葉を、それではないと否定してしまっている。つまりそのモーセの言葉はまさにモーセの言葉であって神の言葉ではない。それは「人間の言い伝え」に類する言葉である(7:1-13)。
3.十戒について
さて、それではイエスにとって「神の言葉」とは何か。この点について興味深い出来事が本日のテキストのすぐ後に記されている。一人の金持ちの青年がイエスの元に来て膝まずき、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねる(10:17-22)。するとイエスは問いに答える前に、「なぜ、わたしを『善い』というのか」と言い、『善い』と呼ばれるに相応しいのは神おひとりしかいいないと宣言し、 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と語られた。ここで述べられている言葉こそ十戒の第4戒から第10戒である。
つまりこの出来事を通して分かることは、イエスは十戒こそが「神の戒め」そのものであると考えているのだと思われる。従って、結婚問題にせよ離婚問題にせよ十戒はどう命じているのか。ところが困ったことに十戒では結婚のこと、離婚のことに触れていない。「人は結婚すべし」とか「結婚したものは離婚してならない」というような戒めはない。こういう場合どうしたらいいのであろうか。これが今日の課題である。
4.結婚とは
さて離婚問題に戻ろう。離婚という出来事には何とはなしに「後ろめたさ」が伴う。最近はそれも薄れ「バツイチ」などという軽い言葉で考える傾向があるが、やはり深刻さは否めない。つまり本来あるべきでない出来事である。従って離婚という問題だけを取り上げて論じるのでは不十分というより不可能なことで、先ず結婚とは何かということから考えなければならない、というのがイエスの考え方であるようだ。
イエスは彼らの離婚問題に関する質問に答えようともせず、いきなり結婚について語り始める。考えてみると、結婚という出来事は非常に不思議である。
しかもいきなり「天地創造の初めから」である。十戒も通り越し、モーセの結婚も通り越し、アブラハム、イサク、ヤコブ等の族長たちの結婚も通り越し、ノアの家族のことも通り越し、天地創造の初めまで遡る。考えてみると人間が人間である限り、何時でも、どこでも男と女がいる限り結婚はなされてきた。形は時代により民族により多種多様である。しかし結婚という営みは延々と続けられてきた。もし結婚ということがなければその民族はそこで絶えてしまう。それら多様な結婚の形を貫いて共通する結婚とは何か。イエスはそれを人類の祖、アダムとエヴァの結婚をモデルとする。それはイエス自身の言葉というよりも聖書の受け売りである。結婚とは「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:21-25)ことだという。当然これは「一体となる」という現実であるから、主語を「女は」としても通じる出来事である。結婚とは男と女がそれぞれ両親から離れて、二人が一体になること、これ以下でもこれ以上でもない。これは神がそう言ったからそうだというわけでもない。まさに現実の人間の結婚という出来事そのものを言葉で表現したことである。イエスは徹底的にこの視点に立ち、この視点から語る。
5.「相応しい相手」
さて、ここで言う「一体になる」という言葉は直訳すると「一つの肉体になる」という意味である。結婚の秘儀はここにある。生まれも育ちも全然異なる2人の人間、人格としては完全に2人でり、二つの体でありつつ同時に一つの体になるということは一体どういうことであろう。理屈では説明が付かない。しかしどの時代、どの社会、どの民族においても結婚という出来事の内実はここにある。婚姻関係とはこういう関係であるべきだというのではない。それは律法主義、法律主義、形式主義への入口である。そうではなくて、そういう事柄のことを結婚という。この関係は他のいかなる人間関係とも異なる特殊な関係であるが、同時に全人類に普遍的な関係でもある。その関係によって人類は子孫を産みだし、社会を構成する。
聖書におけるアダムとエヴァとの結婚の場面をもう少し丁寧に読むと、先ず神がアダムに「人が一人でいるのは良くない」と宣言するところから始まる。そしてアダムに自分に相応しい相手を探すように命じる。アダムは既に存在している全ての動物を見る。しかしそこには自分に相応しい相手がいない。ここが第1に注目すべき点。結婚の相手はある限られた範囲の中から一人を選ぶという行為ではない。見合い写真を10枚ほど見せられて、この中から選べというのではない。その中に自分に相応しい者がいるとは限らないし、多くの場合いない。そこで神はアダムを深い眠りに誘い、アダムの肋骨の一つからエヴァを創り出す。ここが結婚ということを考える場合の非常に重要なポイントである。結婚の相手とはその人のためだけに、神が特別に創り出した存在である。だからアダムはエヴァを見たとき、「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから」(2:23)と叫ぶ。私たちは自分自身の結婚を振り返り、そういう風に思ったことがあるであろうか。私はたち結婚相手のことを考えるとき「私が選んだ相手」、ときには「私選んだやった相手」、あるいは「誰かから押しつけられた相手」と考えているのではなかろうか。
女は男の肋骨から創られたという神話は、女を男に付属するもの、女は男に従う者というように解釈されてきた。パウロにもそういう傾向がある(1コリント14:33-36)。しかし、この解釈はその時代の男女理解を反映している。むしろこの神話は男も女もお互いにその人に「合う助ける者」として特別に創られた者と理解すべきであろう。ついでにもう一つ付け加えておくとこの「合う助ける者」、口語訳では「ふさわしい助け手」と訳されていたが、元々の意味は「向かい合う相手」、「顔と顔とを向かい合わせる者」という意味である。向かい合うのに上下関係はない。
6.「一体になる」
次に、「一体となる」とはどういうことであろうか。もちろん、これは肉体に関することである。直訳すると「一つの肉体になる」ことである。この関係をもう少し具体的に、体験的に語っている表現が、次の言葉である。多くの場合、この言葉が見落とされている。「人と妻とは二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」。このことについては、もうこれ以上説明を要しないと思う。ここまで露骨に言う必要はないと思うが、聖書はあえてそのことを書く。要するに結婚とは「二人とも裸であったが恥ずかしがりはしない」という関係である。「恥ずかしい」と思うこと、あるいは「恥ずかしくない」と思うことは精神の働きである。肉体の関係が精神に及ぶ。これが夫婦というものである。聖書はこの関係の成立の根拠は神によるという。
7.離婚について
さて、ここまでが聖書が語る結婚論である。こうして読み返してみると、聖書の結婚論は十戒にはないが十戒に匹敵するような権威がある。いやむしろ、それは十戒と同じ構造を示してる。少なくともイエスにおいては十戒と同等の「神の言葉」である。しかし、神がこう言われたから、結婚についてはこう考えるべきだというのでは決してない。それは悪しき律法主義である。人間が人間として「当たり前に生きる」、そのことを文章化したのが律法であり、創世記における結婚神話である。人間が現実に行っている結婚という出来事の本質そのものが「神の言葉」になっている。イエスにおいて神の言葉とはそれである。さて、ここまで述べた上でイエスはいよいよ離婚ということについてのイエス自身の「意見」を語る。
「従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない」。この離婚の禁止命令は旧約聖書に根拠は見出されない。おそらくイエス独自の言葉であろう。パウロによるとこの言葉の根拠はイエスにあるという。「既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です」(Ⅰコリント7:9)。ついでに言うと、パウロにとって伝承されたイエスの言葉は神の言葉として受け止めている。