落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 役に立たない僕 マタイ 25:14-29

2008-11-10 15:56:14 | 講釈
2008年 聖霊降臨後第27主日(特定28) 2008.11.16
<講釈> 役に立たない僕 マタイ 25:14-29

1. 資料の分析と語義
ルカ福音書にもこれと似た譬え話がある(ルカ19:11-27)。ただし、ルカでは貨幣の単位がタラントンではなく「ムナ」になっており、細かいところでかなり違いがある。また、マルコ福音書にも同類の譬え話(マルコ13:34~37)があり、おそらく、大元は同じ話が、いろいろに変化して伝承されたのであろうと推測される。マタイは、マルコ福音書のこの個所を読み、それならわたしの方がもっといい資料があると思い、差し替えたのかもしれない。
「タラントン」は当時の通貨の中でも最大の単位であり、1万タラントンともなれば、かなり高額になる。ヨセフスによると、ユダヤ、サマリア、イドゥマ地方(要するにイエスが活動した地域全体)からの税収が、年額600タラントンと言われている(田川建三『マタイ福音書訳と註』746頁)。あまり高額すぎて、実感がないくらいである。
「商売をして」(16節)とは、厳密には「働かせて」で通常の商売というよりは「資金の運用」であろう。「商売」というレベルにしては金額が大きすぎる。おそらく、27節の類推から、金融市場での運用であろう。当時、すでに「銀行」があったぐらいであるから、金融業もあったものと思われる。そういう点では、ユダヤ人は昔から非常に有能であった。
「銀行」(27節) もっとも安全な金融業者
この譬え話で面白い点は、一般庶民の生活では想像もできないような大地主や、大企業家の間での話で、彼らがどんなにして稼いでいるかということの裏話的興味である。
2. タラントンの譬えが語られる意味
「タラントンの譬え」がここで語られる理由は、この譬え話そのものが持つ面白さであって、その面白さと、この譬えがここに置かれている文脈上の意味とは少しずれているように思われる。この部分は、あくまでも終末への準備ということで、大きなメッセージは「目を覚ましていなさい」ということである。このメッセージをこれを読む人たちにわからせるために、ここでは、「ノアの故事」(24:37~39)、「畑で働く二人の男」(24:40)、「臼を引く二人の女」(24:41)、「泥棒の話」(24:43)、「忠実な僕と悪い僕の話」(24:45~51)、「10人のおとめの話」(25:1~12)、「タラントンの話」(25:14~28)等が書かれている。それらすべての話は、ただ一点、終わりの日は「思いがけない時」に来るのだから「終わりまで忠実であれ」ということが強調される。
従って、「5タラントン」がどうの、「1タラントン」がどうの、「庭に埋めていたの」「銀行に預ける」等々は、いわばどうでもいいことで、重要なことは、最後には清算しなければならない時が来る、という点である。そして、本日のテキストからははずれているが、31節以下の部分で、清算の内容が「羊と山羊との譬え」として描かれる。
3. タラントンの譬えそのものが持つ面白さ
それはそうだとしても、この譬え話は、話自体が面白い。読み方によって、いろいろな読み方ができる。そこで、今日は、この譬えを以上に述べた文脈から切り離して、「神と人間のとの関係」を語るものとして読みたいと思う。実は、教会の説教においてはこういう読み方をしているのが一般的である。
その際、タラントンとは神から与えられた人間の能力、賜物、生きる意味を意味している。人間はそれを生かし働かしてこそ人間として生きることになる。
また、一人の僕には5タラントン、別の僕には2タラントン、1タラントンしか主人から与えられていない僕もいる。同様に、人間には与えられている賜物、能力がそれぞれ異なり、その量も異なる。その意味では人間は一人一人異なり、差がある。それが個性である。しかし、全ての僕たちは主人からタラントンを預かっている、ということに関しては平等である。僕たちは主人からタラントンを預かって、初めて僕として生きるのであり、タラントンを預かっているということにより自分の判断と決断とがなされるのである。その意味において、人間は神の前に平等であると同時にそれぞれに与えられているタラントンに従って責任ある存在となる。それが人間の現実であり、この現実以外に人間としての真実はない。この現実を無視して、全ての人間が能力において、また賜物の種類において等しいと考えるのは、悪しき観念論である。
4. 問題の僕はなぜ1タラントンを地中に埋めたのか。
5タラントン預かった僕はそれを働かせ、5タラントン儲けた。2タラントン預かった僕も同様に別に2タラントン稼いだ。それが、当り前の生き方である。それが普通の人生である。ところが、問題は1タラントンしか預からなかった僕である。これが問題の僕であり、この譬え話の主人公である。なぜ彼は、他の人々と同様に預かった1タラントンを働かせなかったのか。彼自身の主張を聞いて見よう。彼は言う。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」。
彼の主人についての認識は間違っていない。要するに、この主人は、大阪弁で言えば「がめつい」のである。そのことを彼は認識している。それに対して、彼のとった行動はどうであろうか。ここで、主人はその認識に対して、怒っているわけではない。むしろ、その認識は正しい。しかし、その認識に基づく彼の行動が問題である。彼がとった行動と、それに対して主人が、「それなら」と言って示している行動とを比較してみると、明らかにこの僕の認識には甘さがある。主人の立場からいうと、僕は主人の「がめつさ」を甘くみている。はっきり言うと「なめている」。このことが、ここでの最大の問題である。
5. 神認識と生活
わたしたちは神について、そして神がわたしたちに対して何を期待しているかということを知っている。それは、必ずしもキリスト者だから、あるいはキリスト者だけが知っているわけではない。すべての人間が、何らかの形で、あるいはその時代時代に応じて、あるいはわたしたちが置かれている環境の中で、わたしが何をすれば神は喜び、わたしたちが何をすれば神は悲しむかということを知っている。ちょうど、それは子どもが親の気持ちを知っているのと同じことである。しかし、問題は、そのことをどの程度に厳しく考えているのか。そこに「甘え」がないか。神を「なめて」いないか。「利息」というような小さなことまで、徹底的に神は問題になさる。
人生には失敗はある。むしろ、失敗だらけかもしれない。十分に自分の能力を発揮できない人生もある。それこそ、「人生いろいろ」である。失敗を恐れて、小さく縮こまる人生もある。主人のいうように、安全だと思って銀行に預けても、その銀行がつぶれてしまうこともある。1タラントンを預かった僕のように「土の中に埋めておく」のが一番安全かもしれない。しかし、その場合と銀行に預けた場合の違いは明らかである。その違いはそのタラントンが「世に出ている」か、どうかの違いである。その利益が預金者に戻ってくるかどうかという以前に、そのタラントン自体は世の中に出て「働いている」。地中に埋められたタラントンはもはや通貨ではなく、ただ単なる紙切れにすぎない。主人が問題にしている点は、そこである。
本日のテキストは29節で終わっているが、実は30節が重要である。それが省かれている理由は、その言葉があまりにもきつすぎると思われたからなのかもしれない。今日はあえて、30節を紹介しておこう。
「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。
「そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」という言葉は、マタイの口癖みたいなもので、6回も使っている(8:12,13:42,13:50,22:13,24:51,25:30)。マタイとしては最高にきつい脅し言葉である。しかし、わたしがここで「きつい言葉」というのは、それではなく「この役に立たない僕」という言い方である。「怠け者」(25:26)はまだましであるが、「役に立たない」という表現はきつい。地中に隠れ、身を縮ませ、この世から完全に離れてしまった生き方、それが「役に立たない僕」の姿である。

最新の画像もっと見る