落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第27主日(特定28)説教 役に立たない僕

2008-11-12 14:24:49 | 説教
2008年 聖霊降臨後第27主日(特定28) 2008.11.16
役に立たない僕 マタイ 25:14-29

1. タラントンの譬え
「タラントンの譬え」で問題にされている点は、要するに、主人から預かったタラントンを「地中に埋めて」「働かせなかった」ということである。もちろん、この譬えが「神と人間」との関係を論じているものであることは明白である。その際、タラントンとは神から与えられた人間の能力、賜物、生きる意味を意味している。人間はそれを生かし働かしてこそ人間として生きることになる。
また、1人の僕には5タラントン、別の僕には2タラントン、1タラントンしか主人から与えられていない僕もいる。同様に、人間には与えられている賜物、能力がそれぞれ異なり、その量も異なる。その意味では人間は一人ひとり異なり、差がある。それが個性である。しかし、全ての僕たちは主人からタラントンを預かっている、ということに関しては平等である。僕たちは主人からタラントンを預かって、初めて僕として生きるのであり、タラントンを預かっているということにより自分の判断と決断とがなされるのである。その意味において、人間は神の前に平等であると同時に責任ある存在となる。それが人間の現実であり、この現実以外に人間としての真実はない。この現実を無視して、全ての人間が能力において、また賜物の種類において等しいと考えるのは、悪しき観念論である。
2. 問題の僕はなぜ1タラントンを地中に埋めたのか。
5タラントン預かった僕はそれを働かせ、5タラントン儲けた。2タラントン預かった僕も同様に別に2タラントン稼いだ。それが、当り前の生き方である。それが普通の人生である。ここでは、それをどのようにして稼いだのかという方法については、現実的には無視できない問題ではあるが、ここでは一応視野に入れていない。
ところで、問題は1タラントンしか預からなかった僕である。これが問題の僕であり、この譬えの主人公である。なぜ彼は、他の人々と同様に預かった1タラントンを働かせなかったのか。それが問題である。
彼自身の主張を聞いて見よう。彼は言う。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」。彼の主人についての認識は間違っていない。要するに、この主人は、大阪弁で言えば「がめつい」のである。そのことを彼は認識している。
それに対して、彼のとった行動はどうであろうか。ここで、主人はその認識に対する彼のとった行動を問題にしている。彼がとった行動と、それに対して主人が、「それなら」と言って示している行動とを比較してみると、明らかにこの僕の認識には甘さがある。主人の立場から言うと、僕は主人の「がめつさ」を甘くみている。はっきり言うと「なめている」。このことが、ここでの最大の問題である。
3. 神認識と生活
わたしたちは神について知っている。神がわたしたちに何を期待し、わたしたちがどう生きることが、神に喜ばれるか、知っている。しかし、そのことをどの程度に厳しく考えているのか。そこに「甘え」がないか。神を「なめて」いないか。「利息」というような小さなことまで、徹底的に神は問題になさる。
人生には失敗はある。むしろ、失敗だらけかもしれない。十分に自分の能力を発揮できない人生もある。それこそ、「人生いろいろ」である。失敗を恐れて、小さく縮こまる人生もある。主人のいうように、安全だと思って銀行に預けても、その銀行がつぶれてしまうこともある。1タラントンを預かった僕のように「土の中に埋めておく」のが一番安全かもしれない。しかし、その場合と銀行に預けた場合の違いは明らかである。その違いはそのタラントンが「世に出ている」か、どうかの違いである。その利益が預金者に戻ってくるかどうかという以前に、そのタラントン自体は世の中に出て「働いている」。主人が問題にしている点は、そこである。
本日のテキストは29節で終わっているが、実は30節が重要である。それが省かれている理由は、その言葉があまりにもきつすぎると思われたからなのかもしれない。今日はあえて、30節を紹介しておこう。
「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。
「そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」という言葉は、マタイの口癖みたいなもので、6回も使っている(8:12,13:42,13:50,22:13,24:51,25:30)。マタイとしては最高にきつい脅し言葉である。しかし、わたしがここで「きつい言葉」というのは、それではなく「この役に立たない僕」という言い方である。「怠け者」(25:26)はまだましであるが、「役に立たない」という表現はきつい。地中に隠れ、身を縮ませ、この世から完全に離れてしまった生き方、それが「役に立たない僕」の姿である。イエスはその生き方を批判する。

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