落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第26主日(特定27)説教 賢いおとめ

2008-11-05 15:58:03 | 説教
2008年 聖霊降臨後第26主日(特定27) 2008.11.9
賢いおとめ マタイ 25:1-13

1. 教会歴における最後の3主日
思想としてのキリスト教の根本的立場は、全て存在するものには始まりがあり、終わりがあるという点にある。しかも、その終わりはただ単なる時間の終わりというだけではなく、存在全体を「清算する」という意味が込められている。それが「最後の審判」のシンボルの意味するところである。全ての存在者は、最終的に永遠なる神の前に立たされる。その視点から、現在の在り方が問われる。教会暦の最後の3主日は、「最後の審判」についての譬えを学ぶ。
特定27(11月9日)マタイ25:1~13 10人のおとめの譬え
特定28(11月16日)マタイ25:14~29 タラントンの譬え
特定29(11月23日)マタイ25:31~46 羊と山羊の譬え
これら3つの譬えを比べてみると、いづれの譬えにも、救われる者と救われない者とが明白に分けられている。第1の「10人のおとめたちの譬え」では、最後の審判の「時」がどの様にしてくるかということが扱われ、準備不足の愚かなおとめは、その時を自分かってに予想し、結局それがかなりずれて油不足のため婚宴の席に入ることができなかった。第2の「タラントンの譬え」においては、神に対するわたしたちの認識の問題が扱われ、第3の「羊と山羊の譬え」では、天国に迎えられる者とそうでない者との区別の基準、つまり「救いの基準」が述べられている。
2. キリスト者の生き方の土台にあるもの
さて、終末(あるいは「最後の審判」)に向かってのキリスト者へのメッセージの基本は2つある。1つは、「その日、その時は、誰も知らない」(マタイ24:36)であり、もう1つは、「目を覚ましていなさい」ということである。これら2つがキリスト者の生き方のベースに流れる基本的なメロディーを形成する。合唱でも、オーケストラでも、室内楽でも、ジャズでも、ベースがしっかりしていなければ、美しいハーモニーを奏でることは出来ない。ベースさえ、しっかりしていれば、何とかなるもので、ここが変調をきたすと、せっかくの美しいメローディーも音程が狂っているように聞こえる。「10人のおとめの譬え」では、「目を覚ましていなさい」ということがテーマである。
3. 目を覚ましていなさい
譬え話としては明快であったとしても、それが実生活において具体的に、「目を覚ましている」ということとは、どういう意味を持ち、どうすればいいのだろうか。
この話の筋をよく考えてみると、おかしなところがある。「目を覚ましていなさい」ということが主題であるにもかかわらず、この譬えは、10人のおとめたちは皆、寝込んでしまったという物語である。このみんな寝込んでしまった、ということにこそ、人間らしさがあり、人間そのものの弱さが表現されている。じゃ、人間はみんな落第か。そんなことはない。みんな寝込んでしまったが、そこに「賢いおとめ」も「愚かなおとめ」とがいる。何が違うのか。この謎を解くことによって、メッセージがはっきりしてくる。
そこで、もう一度改めてこの譬えを読み直す。この「10人のおとめ」の譬えは少し極端すぎるのではないか。5人の「愚かなおとめ」は何も悪いことをしていないし、「賢いおとめ」も何も良いことをしていない。ただ「愚かなおとめたち」5人は少し思慮が足りなかっただけである。それなのに、最終目的であった婚宴に参加できなかった。ちょっと酷すぎる感じがする。思慮が足りなかったということは罪なのか。この譬えでは明らかに「罪扱い」である。
「思慮が足りない」ということはいったい何を示しているのだろうか。どうやら、ここに「目を覚ましていなさい」ということの秘密がありそうである。もう一度いう。「賢い」とされたおとめも、「愚か」とされたおとめも、同じように寝込んでしまう弱さを持った人間である。その点では同じである。そして、花婿の到来を告げる声を聞いて目を覚ましたのも同じである。両者の違いは、花婿到着の時点で、油の用意ができていたか、不用意であったかということだけであった。
この違いは、結局、花婿がいつ到着するのかということについて、賢いおとめたちは自分の予想を立てなかった。というより「立てられなかった」。なぜなら、花婿がいつ来るか知らなかった。一般化していうと、人間には知らないことがあるということを知っていた。ところが、愚かなおとめたちは自分の予想を絶対化した。言い換えると、自分に自信を持っていた。
このことは、いろいろな場面に当てはまる。例えば、「救い」について、わたしたちは本当に知っているのだろうか。わたしは救われると確信できるのだろうか。知っているといい、確信できると言ったとたんにわたしたちは、「救い」から落ちる。同様に、「正義」について、わたしたちは本当に知っているのだろうか。本当にわたしは正しいのだろうか。人生の重要なテーマについて、わたしたちは本当のことを知らない。知らないからこそ求めている。少なくとも、わたしたちはそれらのことについて、「知らないことを知っている」。知らないことを知っているということが「賢さ」である。

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