落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 最後の審判 マタイ 25:31-45

2008-11-17 17:59:57 | 講釈
2008年 聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復(降臨節前主日、特定29) 2008.11.23
<講釈> 最後の審判 マタイ 25:31-45

1. 資料の分析と語義
この部分は、いわゆる平行記事はなく、マタイ福音書独自の物語である。この物語がいわゆる「終末についての説教」(24:3~26:1)の最後の締めくくりであると同時に、マタイ福音書が語るイエスの活動記録全体の最後の部分でもある。26章からは、受難と十字架、復活とつづく部分で、一応独立したものとなる。その意味では、本日のテキストはマタイ福音書にとって、マタイがもっとも言いたかったことのまとめとしても読める。
一つ奇妙なことがある。31節では「人の子」の来臨として描かれているのに、34節でいきなり「王」に変わる。おそらく、34節以下の部分が本来の伝承部分で、マタイはこれに「人の子の来臨伝承」(31節~33節)を付け加えて、最後の審判の情景としたのであろう。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」(40節)の「わたしの兄弟である」という言葉が問題である。ほとんどの重要な写本にはこの修飾語が付いている。従って、口語訳聖書でも、新共同訳聖書でもこの言葉が付いている。しかし、他方初期の教父たちの引用によると、この言葉が欠けている(田川健三『訳と註』819頁)。この文脈において、この語が付いているのと付いていないのでは意味内容がまったく異なってくる。付いていると、この最も小さいものとはキリスト者のことを意味し、キリスト者に対する親切な行為が神によって報われるという意味になる。そして、それが付いていなければ、最も小さいものとは社会における弱者一般ということになり、福祉的行為そのものとなる。普通こういう場合に、付いているものを取り除く可能性と、ないものに付け加える可能性を考えた場合、前者の可能性はほとんどないので、もともとはなかったのに、迫害が激しくなった時代の神学的影響の元に付加されたと考える方が可能性としては高い。一応、ここではこの言葉をないものとして考える。
2. 最後の審判の基準
ここには最後の審判の情景が描かれている。羊飼が羊と山羊とを見分けるように、全人類は審判者であるキリストによって2つに分けられる。その判定の基準が「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれた」行為なのである。つまり、飢えている者に食物を与え、乾いた者に水を差しだし、旅人に宿を、裸の者に衣服を、病気の人を見舞い、獄中にいる者を訪問するというような福祉的行為が、最後の審判において祝福を受ける基準なのだ、ということがこのテキストの主旨である。
3. メッセージ
さて、本日のテキストで重要な点は、最後の審判における判定基準を提示し、そこ向かって生きなさいというメッセージではない。ここで語られている最重要ポイントは、右に置かれた者も、左に置かれた者もその行ったことも、また行わなかったことも、それがイエスに対するものであったということに気付いていない、という点である。その行為が神に対する善行であるとか、信仰者としての当然の務めであるとかということに全く無関係になされているという点こそ、最も重要なメッセージである。先ず、どこかで貧しい人々の中にキリストがおられるという教えが語られ、その教えに従って貧しい人々に施しをする、というのではない。事柄が逆である。マザーテレサは、まず目の前にいる「誰からも看取られないで死にいく人々」と出会い、彼らのために何かをしなければならないということを思い、それを実践した。その実践の中で、「彼らの中にキリストを見た」という深い宗教経験をしたのである。この深い宗教経験こそ、最後の審判の先取り経験であった。この点が逆転すると、貧しい人たちになされた「善行」も、自己中心的な宗教行為、あるいは嫌らしい宗教宣伝になってしまう。それはイエスが最も嫌った偽善以外の何ものでもない。。
4. 一人の青年
ここを読むとき、一人の裕福な青年のことを思い出す(マタイ19:16-30)。彼はある時主イエスの前にぬかずき「先生、永遠の命を得るにはどんな善いことを行えばいいのでしょうか」と質問した。非常に真面目な、真剣な問いである。しかも、問い方も丁重である。この情景を見るものにも好感が持てる。それに対するイエスの態度は端で見ていても少しっけんどう過ぎる。「なぜ、そんなことをわたしに質問するのだ。そんなことを教えてくれる先生は外にいるだろう」。むしろ、イエスの態度は拒絶的である。そして、答えは非常に形式的で「律法を行え」という一言につきる。それに対して青年は非常に真面目に答えている。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。まだ何か欠けているのでしょうか」。問題はこの真面目さにある。教えられたことを教えられたとおりに真面目に実行する。そしてそれで完全である、と思ってしまう。
ただ、この青年は決して「完全である」とは思っていない。思っていたら、イエスの所にやって来ないであろう。何かが欠けているという自覚があればこそ、イエスの所に来たのである。マルコによると、その時「主イエスは慈しんで」「あなたに欠けているものが一つある」と述べられ、全財産を貧しい人々に施し、「それからわたしに従いなさい」と語られている。
この場合、全財産を施すということが重要なのではなく、「わたしに従いなさい」という命令が重要なのである。イエスに従おうとするときに財産が邪魔になる。もし、この時青年がイエスの教えに従って全財産を貧しい人々に施したとしても、彼は救われなかったであろう。なぜなら、それは今まで彼が生きてきたのと全く同じように「教えられたことを教えられたとおりに実行する」という枠から出ていないからである。
5. イエスに従うとは
それでは、この青年にとって「イエスに従う」とはどういう意味であろう。一つは、もちろん全財産を貧しい人々に施して、イエスの弟子になることであろうが、わたしはそうだとは思えない。それではただ、律法という主人からイエスという主人に乗り換えただけにすぎない。ここで、示唆されている「あなたに欠けているもの」は、そうではないであろう。むしろ、ここで彼が捨てなければならないものは、全財産ではなく、何かに依存し、そのことによって、「永遠の命を得ようとする心」であり、その自己中心的な宗教心である。何ものにも、誰にも、依存しない自分自身になる、ということ。言い換えると、永遠の命とか、律法とか、善行とか、キリストとか、というこの世の様々な価値観から自由になって、一人の人間として生きるということに他ならない。それこそがイエスの生き方である。喜んでいる人がおれば、一緒に喜び、泣いている人がおれば、共に泣き、飢えている人がおれば、食べ物を分け合う。それがイエスに従うという意味である。その場合、「イエスに従っている」という意識からも解放されねばならない。
6. 最後の審判において裁かれること
最後の審判において裁かれることは、わたしたちがわたしたちを取り巻く状況の中でどのように主体的に生きたかという点である。宗教的な戒律や社会的拘束を教えられたとおりに真面目に実行しても、それは査定の対象にならない。そういう種類のことから全く自由になって、一人の人間として、どう生きたのか。他人の目さえそこでは関係ない。どのように人々に関わり、愛し、戦い、触れ合ったのか、ということが問題である。わたし自身が行ったことを全く忘れてしまっているようなこと、それ程自然に、ありのままに生きてきた事実が問われる。

最新の画像もっと見る