落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後最終主日説教 最後の審判

2008-11-19 10:14:04 | 説教
2008年 聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復(降臨節前主日、特定29) 2008.11.23
最後の審判 マタイ 25:31-45

1. 最後の審判の基準
ここには最後の審判の情景が描かれている。羊飼が羊と山羊とを見分けるように、全人類は審判者であるキリストによって2つに分けられる。その判定の基準が「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれた」行為である。つまり、飢えている者に食物を与え、乾いた者に水を差しだし、旅人に宿を、裸の者に衣服を、病気の人を見舞い、獄中にいる者を訪問するというような福祉的行為が、最後の審判において祝福を受ける基準なのだ、ということがこのテキストの主旨である。
2. メッセージ
さて、本日のテキストで重要な点は、最後の審判における判定基準を提示し、そこ向かって生きなさいというメッセージではない。ここで語られている最重要ポイントは、右に置かれた者も、左に置かれた者もその行ったことも、また行わなかったことも、それがイエスに対するものであったということに気付いていない、という点である。その行為が神に対する善行であるとか、信仰者としての当然の務めであるとかということに全く無関係になされているという点こそ、最も重要なメッセージである。先ず、どこかで貧しい人々の中にキリストがおられるという教えが語られ、その教えに従って貧しい人々に施しをする、というのではない。事柄が逆である。マザーテレサは、まず目の前にいる「誰からも看取られないで死にいく人々」と出会い、彼らのために何かをしなければならないということを思い、それを実践した。その実践の中で、「彼らの中にキリストを見た」という深い宗教経験をしたのである。この深い宗教経験こそ、最後の審判の先取り経験であった。この点が逆転すると、貧しい人たちになされた「善行」も、自己中心的な宗教行為、あるいは嫌らしい宗教宣伝になってしまう。それはイエスが最も嫌った偽善以外の何ものでもない。。
3. 一人の青年
ここを読むとき、一人の裕福な青年のことを思い出す(マタイ19:16-30)。彼はある時主イエスの前にぬかずき「先生、永遠の命を得るにはどんな善いことを行えばいいのでしょうか」と質問した。非常に真面目な、真剣な問いである。しかも、問い方も丁重である。この情景を見るものにも好感が持てる。それに対するイエスの態度は端で見ていても少しっけんどう過ぎる。「なぜ、そんなことをわたしに質問するのだ。そんなことを教えてくれる先生は外にいるだろう」。むしろ、イエスの態度は拒絶的である。そして、答えは非常に形式的で「律法を行え」という一言につきる。それに対して青年は非常に真面目に答えている。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。まだ何か欠けているのでしょうか」。問題はこの真面目さにある。教えられたことを教えられたとおりに真面目に実行する。そしてそれで完全である、と思ってしまう。
ただ、この青年は決して「完全である」とは思っていない。思っていたら、イエスの所にやって来ないであろう。何かが欠けているという自覚があればこそ、イエスの所に来たのである。マルコによると、その時「主イエスは慈しんで」「あなたに欠けているものが一つある」と述べられ、全財産を貧しい人々に施し、「それからわたしに従いなさい」と語られている。
この場合、全財産を施すということが重要なのではなく、「わたしに従いなさい」という命令が重要なのである。イエスに従おうとするときに財産が邪魔になる。もし、この時青年がイエスの教えに従って全財産を貧しい人々に施したとしても、彼は救われなかったであろう。なぜなら、それは今まで彼が生きてきたのと全く同じように「教えられたことを教えられたとおりに実行する」という枠から出ていないからである。
4. イエスに従うとは
それでは、この青年にとって「イエスに従う」とはどういう意味であろう。一つは、もちろん全財産を貧しい人々に施して、イエスの弟子になることであろうが、わたしはそうだとは思えない。それではただ、律法という主人からイエスという主人に乗り換えただけにすぎない。ここで、示唆されている「あなたに欠けているもの」は、そうではないであろう。むしろ、ここで彼が捨てなければならないものは、全財産ではなく、何かに依存し、そのことによって、「永遠の命を得ようとする心」であり、その自己中心的な宗教心である。何ものにも、誰にも、依存しない自分自身になる、ということ。言い換えると、永遠の命とか、律法とか、善行とか、キリストとか、というこの世の様々な価値観から自由になって、一人の人間として生きるということに他ならない。それこそがイエスの生き方である。喜んでいる人がおれば、一緒に喜び、泣いている人がおれば、共に泣き、飢えている人がおれば、食べ物を分け合う。それがイエスに従うという意味である。その場合、「イエスに従っている」という意識からも解放されねばならない。
最後の審判において裁かれることは、そういうわたしである。わたし自身が行ったことを全く忘れてしまっているようなこと、それ程自然に、ありのままに生きてきた事実が問われる。

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