落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 偶像に供えられた肉 1コリント8:1b-13

2009-01-27 15:40:02 | 講釈
2009年 顕現後第4主日 2009.2.1
<講釈> 偶像に供えられた肉 1コリント8:1b-13

1. 文脈上の問題
コリントの信徒への第1の手紙について、特に文脈上の問題は先週の<講釈>を参照のこと。
翻訳上の問題について、多少気になる点を押さえておく。
まず、1節の「高ぶらせる」は、風船に空気を吹き込んでふくらませるという意味で、正しい方法で獲得されていない知識、要するに他人の受け売りのような知識というものは、知識というものの限界を知らないので、バブルのようにふくらんでしまい、ついには破裂してしまう、という意味である。
6節の言葉は詩文で、おそらく当時の一種の信仰告白、ないしは賛美歌の引用であろうと思われる。
9節の「自由な態度」という言葉には「自由」という言葉はなく、正確には「力」という言葉である。宗教改革者ルターがこの言葉を「自由」と翻訳して以後、それが定訳になってしまったが、むしろ、これは「力」とこれに続く「弱さ」とが対比されており、「あなた方の力(強さ)」が「弱い人々」の妨げになるという意味である。
10節の「その人は弱いのに、その良心が強められて」という言葉は翻訳としては正しいが、文脈上はかなり問題がある。要するに、「良心が強められる」という言葉がいい意味なのか、悪い意味なのかがはっきりしない。口語訳では括弧付きで「良心が弱いため『教育されて』」と訳され、文語訳では「その人弱きときは良心そそのかされて」と訳されている。フランシスコ訳は面白い。「良心が病んでいるために、(その人はあなたの行為に)力づけられて・・・・」と訳されている。ちなみに田川健三氏は「弱い人間であるその者の意識が(偶像に供えられた肉を食べるようにと)作り上げられる・・・」と翻訳している。要するに、この部分における論理展開は、キリスト教的な立場に立てば偶像に供えられた肉を食べても何ら問題はないという建前の論理を展開しつつ、現実的な場面においては「偶像に供えられた肉」を食べるべきではない、ということを主張しようとしている。パウロの「本音」がどこにあるのかはっきりしていない。その為、パウロ自身の用語法がふらついており、苦しい論理を展開しているものと思われる。弱い人が強くなる、ということはパウロ自身が望んでいるはずであるのに、意識が弱いままで、外面的な行為だけが「強い人の影響」を受けることへの警戒が述べられているのであろう。
2. 知識の限界
パウロは、先ずここで展開しようと思っている内容を総括する言葉で議論を始める。それが1節後半の「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」である。この言葉だけを取り上げると、知識人一般に対する批判の様に見えるが、ここで言う「知識」とは1節の前半で触れている「偶像に供えられた肉」についての知識である。キリスト者であるならば誰でもその知識を持っている。これが議論の出発点である。
1節の言葉でパウロが言いたいことを正確に理解するためには、先ず2節の言葉から説明しておく。「自分は何か知っていると思う人」とはこの場合キリスト者を意味しているが、キリスト者は「知らねばならぬことをまだ知らない」と断じる。この翻訳文だけを読んでいると、キリスト者は知らねばならないことが10あるとして、まだ5しか知らないという意味に取られ、まだまだ知らなければならない重要なことが沢山あるよ、という意味になってしまう。パウロが言おうとしていることはそういうことではない。むしろ、知らなければならないことは知っているが、問題はその知り方にある。パウロがここで、あなた方の「知り方が悪い」と言いたいのである。
その結果として、1節の「知識は人を高ぶらせる」ということが起こる。この「高ぶらせる」ということについては既に述べたとおりで、その知り方が悪いために、その知識は異常に膨張し、人々に害を及ぼすようになる。つまり、ここでは「知識を持っている」と自負しているキリスト者に対して批判をしているのである。そして知識を持っている人に欠かしてはならないのはその知識の適用において「愛」が重要だという。
3. 知識は力である
ここで、パウロは「知識を持っているキリスト者」に対してもう一つの警告を与える。それは9節の「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」という言葉で、要するに、知識は一種の力であり、その力が弱い人々にとって妨げになるという意味である。
現代とは違って、「この知識」は非常な力であった。衣食住をはじめ、生活のあらゆる面で人びとは「神々」に縛られていた。文字どおり、それは呪縛である。現在でも世界の多くの人びとは「神々の呪縛」のもとで生活している。むしろ、この呪縛から解放されている人口の方が少ないと思われる。この種の「解放」のことを「世俗化」という。そういう意味では、キリスト教は世界の世俗化に貢献してきた、という言い方もできる。人びとが最も恐れている「神々」を一刀両断、「そんなものはいない」と断言してしまうのであるから、大変な力である。
力はコントロールする能力のない人間が持つと危険なものになる。武道の心得のない人間がよく切れる刀を持つことは危険である。権力にしても同様である。馬鹿が権力を持つことほど危険なことはない。
4. 愛は造り上げる
さて、パウロは、キリスト者はこういう「知識」を持っているのであるが、その威力を振りかざしてはいけない。むしろ、その「知識」を内に隠して、この知識を持たない人々と同じ地平線に立って、生きよと語る。偶像に供えた肉といっても、そもそも偶像というものが存在しないのであるから、ただ単なる普通の肉と全く同じものである。わたしたちはそのことを知っている。だから平気で食べることができる。しかし、その肉がある種の「呪い」を受けているという理由で食べることができない人がいるならば、わたしがその兄弟を「つまずかせないために」、あえて食べない、という。それがここで言うパウロの「愛」、「造り上げる愛」である。食べる自由を持つ者は食べない自由をも持っている。
ここでは一見、知識と愛とが対比されている。知識と愛とは対立するものなのだろうか。よく読んでみると、ここで否定されているのは、単なる知識ではない。「愛の無い知識」である。裏返して言うと、ここで強調されている態度は、「知識に裏打ちされた愛」である。愛の無い知識は人を滅ぼし、知識に裏打ちされた愛は「造り上げる」、というのがここでのメッセージである。
5. 何を造り上げるのか
それでは、一体何を造り上げるのだろうか。10節の言葉は重要である。「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席についているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます」。偶像に供えられた肉を食べられない「弱い人」が「知識を持っている人」が平気で食べている姿を見て、「良心が強められて」、その肉を食べられるようになる。弱い人が強くなるということはよいことではないのか。ところが、パウロは「弱い人が滅びてしまいます」と言う。この部分の意味については上に述べたので繰り返さないが、要するに「食べても平気」という知識が自分のものになっていない。本当は食べることはいけないことと思っているのに、知識のある人が食べているので、それを「まねして食べる」ということ、それがその人の「滅び」である、とパウロは考えている。だからわたしは食べない、という。わたしが食べることによって、信仰の弱い人たちが「信仰から離れる」からではない。「まねされる」からである。真似事としての信仰、これが9節で言う「罪への誘い」であり、11節の「滅び」である。
パウロは、ここで知識に裏打ちされた愛、あるいは愛によって包まれた知識が育てるものは、真似事ではない信仰、その人自身の主体的な信仰である。
6. 問題の所在
ところで、パウロのこの言葉を読んで、理解して、パウロの時代においてはそうだったのか、と言うだけで終わってしまっては、このメッセージを受けたことにはならない。問題はわたしたちにある。パウロの時代のキリスト者たちが持っていた知識、当時の非キリスト者に対して「高慢になることを戒められたような知識」をわたしたちは持っているのか、ということである。もはや、そんな知識は必要のないほど、開明された時代にわたしたちは住んでいるのだろうか。もちろん、今でも食物についてのタブーが生きている社会もあるだろう。そういう世界に出かけていって「それは間違っている」などと教えるのがわたしたちの役割なのだろうか。
わたしは思う。わたしたち自身の住んでいる社会を見ても、まだまだ沢山のタブーがある。実例をあげると、妊娠中絶の問題、同性結婚の問題、人種差別から性差別まで、数え出すと切りがないほどである。むしろ、問題はそれらの諸問題について、キリスト教が果たしている逆作用である。
先日、世界中が注目する中でアメリカ合衆国の第44代大統領の就任式が行われた。新大統領が就任式の翌日に大統領令に署名したうちで、グエンタナモ米軍基地内の収容所を1年以内に閉鎖することに関する政策の変更の方はかなり大々的に公開されたが、もう一つの方は非公開でなされたという。そのため日本のマスコミがあまり注目しなかったが、それは人工妊娠中絶を支援する国際団体などへの資金援助規制を撤回する大統領令であった。この問題は、アメリカの世論を2分する深刻な問題である。わたしはこの問題はアメリカにおけるキリスト教の恥部ともいうべきテーマであると考えている。ブッシュ前大統領を支持する保守的キリスト教団体では、人工妊娠中絶に絶対反対し、大統領はその勢力のプレッシャーに負けて、かなり強烈な規制をかけていた。この問題は、発展途上国の人口増加問題やエイズの問題とも深く関連し、宗教的な解決ではなく科学的解決が求められている。オバマ大統領の基本的な姿勢は、「(中絶を)政治問題にするのはやめる時だ」という点にある。
実はこの問題はそんなに単純ではない。このたびのオバマ大統領の政策転換「チェンジ」に対して、バチカンの生命倫理問題を担当する生命アカデミーのフィジケラ議長は、24日付のイタリア紙コリエレ・デラ・セラを通じて、「オバマ氏に失望する日は近い」と批判し、この件によって、大統領とバチカンとの間は暫く、ぎくしゃくするだろうと発言したという。面白いことにこの点についてはアメリカのキリスト教のファンダメンタリズムとバチカンとが頚木を共にしている。アメリカ社会においてファンダメンタリズムとバチカンとの連合は影響力は大きい。
さて、政治の世界、あるいは政治家という存在にはデモーニッシュな力はあるが、「絶対」はない。彼らがどれほど魅力的であっても、絶対的信頼を置くことは出来ない。何時変身するか、あるいは何時方向転換するか、あるいは何時馬脚を現すかわからない。政治家に絶対的信頼を寄せることは大人のするべきことではない。その意味では、昨今のアメリカの高揚した精神状況は危険でもある。ヒットラーだって当時のドイツにおいて「民主的な手続きにより」国民の絶対的支持を得て登場したのである。ある識者はオバマ大統領にその危険性を感じると発言している。わたし自身は、そうならないことを期待しつつも、一旦権力を握ると人間は変わるということを経験してきたので、その危険性がオバマ大統領にないとは言えないだろう。その意味で、権力の座に、期限を設け、チェック機関を設置することは民主的な社会における必須の手続きであろう。ローマ教皇といえども同様であると思う。
さて、本日のテキストに戻って考えるとき、キリスト者が知っている知識とは「偶像に供えられた肉」について、「世の中に偶像は存在しない」という視点からの認識である。言い換えると、人々が「絶対」と考えている絶対者は、実際にはこの世には存在しない。その知識をしっかりと理解して、この世においては「責任ある主体」、つまり成熟した成人として生きるということである。このプロセスを通常は「世俗化」という。その意味において、キリスト教は世界の歴史において大きな役割を果たしてきた。しかし、問題は現在である。この世における「神」としてきた諸々の偶像を祭壇から引きづり落としてきたキリスト教が、現在ではちゃっかりと祭壇の上に座っているのではないか。この神に向かって「死」の宣告をしたのがニーチェであり、そんな神は成熟した世界においては不要で、一人一人の成熟した人間は「神なしに、神と共に、神の前で生きる」と宣言したのがボンヘッファーである。
オバマ大統領は、バチカンおよびアメリカにおけるファンダメンタリズムの政治的支援を棄てて、人工中絶問題を「非政治化」と同時に「非宗教化(=世俗化)」することを決意した。わたしたちはこの問題について既に「知識」を持っている。この知識を愛によって生かし、社会を「育て上げる」のがわたしたちの使命である。

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