落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

2009年 顕現後第4主日説教 偶像に供えられた肉

2009-01-28 21:31:46 | 説教
2009年 顕現後第4主日 2009.2.1
偶像に供えられた肉 1コリント8:1b-13

1. 呪縛からの解放
パウロはキリスト者は「偶像に供えられた肉」に関して特別な知識を持っている、と言う。現代とは違って、この知識は非常な力であった。衣食住をはじめ、生活のあらゆる面で人びとは「神々」に縛られていた。文字どおり、それは呪縛である。現在でも世界の多くの人びとは「神々の呪縛」のもとで生活している。むしろ、この呪縛から解放されている人口の方が少ないと思われる。この種の「解放」のことを「世俗化」という。そういう意味では、キリスト教は世界の世俗化に貢献してきた。人びとが最も恐れている「神々」を一刀両断、「そんなものはいない」と断言してしまうのであるから、大変な力である。この知識を持っている人間は高慢になる。
2. 愛は造り上げる
さて、パウロは、キリスト者はこういう「知識」を持っているのであるが、その威力を振りかざしてはいけない。むしろ、その「知識」を内に隠して、この知識を持たない人々と同じ地平線に立って、生きよと語る。偶像に供えた肉といっても、そもそも偶像というものが存在しないのであるから、ただ単なる普通の肉と全く同じものである。わたしたちはそのことを知っている。だから平気で食べることができる。しかし、その肉がある種の「呪い」を受けているという理由で食べることができない人がいるならば、わたしがその兄弟を「つまずかせないために」、あえて食べない、という。それがパウロがいう「愛」「造り上げる愛」である。食べる自由を持つ者は食べない自由をも持っている。それがここで言うパウロの「愛」、「造り上げる愛」である。食べる自由を持つ者は食べない自由をも持っている。
3. 何を造り上げるのか
それでは、一体何を造り上げるのだろうか。10節の言葉は重要である。「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席についているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます」。偶像に供えられた肉を食べられない「弱い人」が「知識を持っている人」が平気で食べている姿を見て、「良心が強められて」、その肉を食べられるようになる。弱い人が強くなるということはいいことではないのだろうか。ところが、パウロは「弱い人が滅びてしまいます」と言う。口語訳では「その人は弱いのに、良心が強められて」という部分を「その人の良心が弱いため、それに『教育されて』、偶像への供えものを食べるようにならないだろうか」と訳している。ここで言う「滅び」とは、信仰を無くしてしまうとか、つまづくということではなく、「食べても平気」という知識が無いのに、あたかもあるかのように「平気な顔をして食べる」ということである。本当は食べられない、食べることに躊躇している、食べることはいけないことと思っているのに、知識のある人が食べているので、それを「まねして食べる」ということ、それがその人の「滅び」である、パウロは言う。だからわたしは食べない、という。わたしが食べることによって、信仰の弱い人たちが「信仰から離れる」からではない。「まねされる」からである。真似事としての信仰、これが9節で言う「罪への誘い」であり、11節の「滅び」である。
パウロは、ここで知識に裏打ちされた愛、あるいは愛によって包まれた知識が育てるものは、真似事ではない信仰、その人自身の主体的な信仰である。
4. 最後に一言
最後に一言。わたしたちは個人的な興味として、教会の礼拝に出席し、聖書の話を聞いているのではない。パウロの今日の言葉にしても、昔はそうだったのだ、で終わってはならない。パウロの言葉を現在わたしたちはどう聞き、どう生きるのかということが問題である。問題は山ほどある。
わたしは思う。わたしたちも自身の住んでいる社会を見ても、まだまだ沢山のタブーがある。実例をあげると、妊娠中絶の問題、同性結婚の問題、人種差別から性差別まで、数え出すと切りがないほどである。むしろ、問題はそれらの諸問題について、キリスト教が果たしている逆作用である。
この世における「神」とされてきた諸々の偶像を祭壇から引きづり落とすのに貢献してきたキリスト教が、現在ではちゃっかりと祭壇の上に座っているのではないか。この神に向かって「死」の宣告をしたのがニーチェであり、そんな神は成熟した世界においては不要で、一人一人の成熟した人間は「神なしに、神と共に、神の前で生きる」と宣言したのがボンヘッファーである。
それらの多くの問題を貫く、一つのメッセージを聞きたい、と思う。それは、「この世には絶対はない」ということである。この絶対のない世界で、責任ある主体として生きるということが、わたしたちの責任である。何かに依存する方がはるかに生きやすいかも知れないが、何にも依存しないということが大人としての生き方である。わたしは、わたしは人々に、とくにこの世において「絶対的なもの」に縛られている人々に言いたい。もう少し大人になれよ。もう少し賢くなれよ。それがパウロのメッセージであろう。

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