落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

顕現後第3主日説教 ありのままの私

2009-01-21 14:42:53 | 説教
2009年 顕現後第3主日 2009.1.25
ありのままの私 1コリント7:17-23

1. パウロのメッセージ
ここでパウロは「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです」(17節)という。先ず、最初に翻訳上の問題点を整理しておこう。ここで用いられている「身分」という言葉は原文にはない。口語訳では「状態」という語が挿入されているが、それも余分な言葉で、要するに「神に召されたときのままで、これからもそんままで生きなさい」という意味である。わたしたちの言葉でいうと、神は「ありのままの私」を召されたのであり、「そのままでいいよ」ということになる。このメッセージが、現実において、結婚状態とか割礼の有無とか、奴隷の身分ということと絡まって、中心点がぼやけてしまって、非常に保守的な言葉に聞こえてしまっている。重要なことは「ありのままの私」である。
驚くべきことが淡々と語られている。神はわたしたちを「ありのままの私」として召し抱えている。神はわたしの「過去」もわたしの「現在」もわたしの「未来」もすべてひっくるめて「ありのままの私」を受け入れている。男性は男性のままで、女性は女性のままで、中性は中性のままで、ギリシア人はギリシア人のままで、ユダヤ人はユダヤ人のままで、日本人は日本人のままで、ドイツ人はドイツ人のままで、神は受け入れ、この世界で生きることを命じられる。神は決してこの世から切り離して別の世界にわたしたちを移すのではない。その人が生きてきた、そして生きているその世界で生きることを命じる。
ところが、人間は人間をありのままに受け入れていない。人間は共に生きている他者(隣人)に様々なレッテルを貼り、時には人間を「物」のように売買したり、その人間を「敵」と断定し爆弾を落としたりする。神が「良し」とする人間を、人間は「悪」とする。
2. 「そのことを気にしてはいけません」。
そのことと関連して、もう一つ注目すべき言葉がここにある。それは「そのことを気にしてはいけません」という言葉である。一応、この言葉は「召されたときに奴隷であった人も」と気にするであろう人が示されているが、この言葉はすべての人に当てはまる言葉であろう。つまり、「ありのままの私」について、「気にする人」、「ありのままの私」に問題を感じているすべての人に対して、「気にするな」と語っている。
実は、すべての人間が、「ありのままの私」に問題を感じているのではなかろうか。「こんな私はいや」という気持ちは誰でも抱いている。他人のことは本当にはわからないが、少なくとも、わたし自身は「ありのままの私」に自信が持てない。もう少し「ましな私」になりたい、と思っている。もし、それが叶わないならば、せめて「着飾った私」を見せたい。ここに、「もう少しましな『私』を求める私」と「ありのままの私」との分裂がある。「自分を見ている自分」と「見られている自分」と言ってもいいだろう。「気にする」とはこの2人の「私」の間の分離葛藤である。この問題を悩み抜いたのがパウロである。
パウロはその悩みについて、次のように告白している。少し長いが重要なことなので引用する。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか(ロマ書7:18~24)」。一人の人間としてこれほど深い悩みはあるだろうか。しかし、このパウロの言葉がわたしたちの心に響くのは、わたしたちも同じ事で悩んでいるからである。パウロはこの悩みを悩み抜き、その悩みの究極において、結局、「私は私でしかない」という境地に立ったのである。それを「開き直り」というなら確かに「開き直り」であろう。「悪しき開き直り」はそこまで達しないで自己を正当化しているに過ぎない。しかし、この開き直りは悩みのどん底で「底が割れる」という体験である。この体験をパウロは次のように語る。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」(同25節)。「神の律法に仕えている私」と「罪の法則に仕えている私」という矛盾した私をそのまま受け入れてくださる、というメッセージを主イエス・キリストから受けたのである。

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