落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

顕現後第6主日説教 宣教とは

2006-02-10 09:13:41 | 説教
2006年 顕現後第6主日 (2006.2.12)
宣教とは   マルコ1:40-45
1. 教会の伝承
初代教会において主イエスがなされたいくつかの奇跡物語が言い伝えられていた。その中でも、特に人々の関心を引いた出来事が、本日のテキストのもとになっている事件である、と思われる。
ある重い皮膚病の人が、主イエスのもとに来て「癒してくれ」と頼んだところ、主イエスは彼に手を差し伸べて、その人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち病気は癒された、という出来事である。この出来事は内容が内容だけに非常に多くの信徒たちの注目を引いたものと思う。主イエスはかなり多くの重い皮膚病の人を癒したものと思われる。マルコ福音書だけでももう一人ベタニヤのシモンという人のことが記されている(1:3)、ルカ福音書では10人の人が一度に癒された出来事が記録されている。
この「重い皮膚病」という病気がどういう病気であったのかということについては、いろいろ議論があり、簡単に決めつけることは出来ないが、ともかく非常に恐れられ、これにかかった人は社会から隔離されたようである。つまり、接触するということが禁止されていた。ところが、本日のテキストでは、主イエスはこの男に「手を差し伸べて、その人に触れ」て癒しておられる。これは単に勇気があるとかないとかの問題ではなく、要するに法律違反である。主イエスはあえて、このような行動に出て、この男を癒された。
2. 宣教とは何か
さて、マルコはこの出来事を取り上げて「宣教とは何か」ということを語る。この「宣教」という言葉は先週取り上げられたテキストからの、いわば宿題にようなもので、先週のテキストでは「近くの町や村に行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と宣言された。この「宣教」という言葉は、いわば教会特有の用語で、この言葉の背景には既に教会が成立していることを前提としている。そういう、いわば歴史的重さを持った言葉をここであえて主イエスに語らせているマルコとの意図はなんだろうか。いったい、宣教とは何か。これが今日のテキストの問題である。
結論を先取りして述べておく。現在わたしたちが読んでいる新共同訳聖書では隠れているが、じは45節の「人々に告げ」の「告げ」という言葉は「宣教する」という言葉が用いられている。つまり、マルコは主イエスの「宣教」に続いて、最初に宣教活動をしたのはこの男である、ということをここで語っている。この男の行動が宣教である。
3. 宣教とは命令されてするものではない
そこで、この男の行動を吟味すると、まずこの男は、主イエスから「誰にも何も話さないように」(44節)と禁止されていたにもかかわらず、主イエスから離れるとすぐに「大いにこの出来事を人々に告げ」、つまり宣教し始めた。主イエスから口止めされていたのに、それに反して「大いに語った」。これが、宣教である。宣教とは命令されてするものではない。義務感からするものでもない。むしろ、禁止されても、自発的に、抑えることができない力に従って行動する。それが宣教である。
4. 宣教とは自分が体験したことを語ることである。
語る内容は、自分が経験した事実である。教えではない。教義ではない。神学ではない。自分の身の上に起こったこと、それを語ることが宣教である。自分が体験したこと、特に救いというような経験は、一人ひとり独自のものがあり、十把一絡げにしてしまうわけにはいかない。人生における苦労、悩みは多様であり、そこからの救いというものも多様である。救いとはこういうものでなければならないという発想は独善的な宗教思想にすぎない。ただ一点、共通するものがあるとしたら、それは主イエスとの出会いという要因であろう。
5. 宣教とは主イエスを語ることである。
さて、最後に45節について。「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広げ始めた」という表現は、何かしらもたもたしている。「告げ」という言葉と「言い広げ」という言葉が重なっている。繰り返し読むと、要するに、この言葉は彼は自分が体験した出来事を言い触らすということと、主イエスのことを宣べ伝えた、ということが平行して語られている。宣教とはただ単に「一身上の体験を語る」ことで終わってはならない。確かに「身の上話」であるが、その身の上話が、「ロゴス」としてのイエスを語ることにおいて、宣教になる。
ここで注目したいことは、ここで彼がとった行動を「宣教」という特別な言葉で表現している点である。この言葉は後の教会において最も重要な課題を表現する言葉である。ところが、マルコはこの重要な言葉を、まず主イエスの活動を表現する言葉として用い、主イエス以外ではこの男の活動を表現する言葉として用いている。
宣教とは、牧師や聖職者に任せておけばいい、という考えがある。しかし、そうではない。宣教はまず無名のこの男の行動である。しかも、それは主イエスから「せよ」と命じられてしたのではなく、むしろ「口止め」されたにもかかわらず、やむにやまれないから出てくる霊的力が、この男を宣教に向かわせたのである。使徒パウロも宣教の動機について、こう言っているではないか。「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(1コリント9:16)。

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