落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 聖職の報酬問題 1コリント9:16-23

2009-02-02 20:07:38 | 講釈
2009年 顕現後第5主日 2009.2.8
<講釈> 聖職の報酬問題 1コリント9:16-23

1. 9章問題
「9章問題」などと言うと少し大げさであるが、ともかく本書の9章では、冒頭から内容も口調も変わる。内容は、パウロの使徒職についての疑問に対する弁明である。8章で展開されていた、偶像の供えられていた肉についての議論は、9章を飛び越して10章にスムーズにつながる。従って、9章については、他の手紙かあるいはこの手紙の一部だとしても別な部分から何らかの理由でここに紛れ込んだのではなかろうかという解釈もある。
2. 聖職者の報酬問題(金銭問題)
パウロの聖職位について疑問が出された一つの原因は、彼が他の聖職たちと違って聖職の報酬を受け取らなかったということのようである。パウロも聖職が報酬を受けるのは当然の権利であるということを認めているのであり、他の聖職がそれを受けることを批判しているわけではない。ただ、自分自身の生き方の問題として「そうしない」というだけのことである。
しかし、パウロは報酬を受けないということをかなり誇りにしていたようで、そのことが他の聖職たちから反感を受けたのかも知れない(1テサロニケ2:9、2コリント11:7)。
17節は非常に曖昧であり、昔からいろいろと論議されているところであるが、ここでは「ゆだねられている務め」、とくに「務め」と訳されている「オイコノメノー」という言葉は非常に興味深い単語である。もともとの意味は「家政」、家の中を管理すること、という意味である。ここから、この言葉は神が神の家である「世界」を計画・管理する、という意味で「世界経綸」というような意味で用いられるようになり、一般的には「経済」(エコノミー)という言葉の語源ともなっている。教会用語としては「エキュメニズム」という言葉として有名である。
「ゆだねられている」という言葉は「オイコノメノー」をどう訳すのかということにも関わるが、「配分されている」と訳すのが最も妥当だと思われる。わたしは、ここはもっと単純に「わたしに配分されている役割」とでも訳しておくほうがよいように思う。つまり、無報酬で、ということは自分の食い扶持は自分で働いて稼ぎ、伝道するという生き方が「自分に配分されている役どころ」「わたしのオイコノメノー」なのだ、ということであろう。
報酬(=賃金)は労働への対価であり、いやな仕事ほどそれに見合う賃金が支払われ、好きでやっている仕事、たとえばボランティアなどでは報酬を受けないというのが普通の理屈であるが、ここでパウロは「好きでやっているのなら、報酬を受ける」が、「強制されてしているのだから報酬は受けない」という。理屈が逆転している。その逆転の理由として「それは、ゆだねられている務めなのです」と説明されている。つまり、パウロにとって福音宣教とは賃金労働ではなく「委託業務」だというのであろう。聖職者は「サラリーマン」ではなく、経営者であるという理屈であろう。
18節の言葉も曖昧な表現である。聖職者が経営者だとすると経営者が受ける報酬とは何か。しかも、それが金銭的なものでないとしたら、パウロは「権利の放棄」そのものが聖職者の報酬であると言っているように思うが、それでは説明したことにはならない。ここでは「報酬」というよりもパウロが狙らっているもの何かということであろう。おそらく、ここにパウロの密かな聖職観が潜んでいるのかも知れない。
3. パウロの聖職観
パウロが聖職者として当然受け取ってもいいとされる報酬を受け取らないという議論において、意図せずにパウロの聖職観が23節の「わたしが福音に共にあずかる者」という言葉がによって吐露されている。この言葉は何気なく読んでいると、福音の恵みにあずかるというごく一般的な意味に理解されてしまう。しかし、この文脈ではパウロ自身は既に福音の恵みにあずかっているのであり、ここでいう「福音に共にあずかる者になる」という言葉は人生の最終目標で、将来に関わる事柄である。ここではパウロはそのことのためになら「何でもする」という覚悟を語っているのである。田川健三氏はこの言葉を「福音の共同者」と訳すべきで、その意味は聖職者は「神の側に居る特別な存在」だという意味である、と説明している(『訳と註』321頁)。言い換えると、ここで言う「共に」とは信徒たちと共にという意味ではなく、「神との共同」を意味する。パウロにとって福音宣教という仕事にたずさわるということは、神との共同経営者になることを意味する。パウロの権威主義的な姿勢の根拠はこういうところにあるのであろう。
4. 聖職者のサラリーマン化
社会の経済構造や、聖職の経済生活について、パウロの時代と現在とでは比較にならないほど変化している。しかし、何事でも同じであるが、変わってしまった面と共に、変わらない面もある。何が変わり、何が変わっていないのかということをしっかりと見極めることが必要であろう。
聖職者と言えでも、霞を食って生きているわけではないので、当然生活費が必要である。聖職者はどのようにして生活費を得ているのか、これは時代の変化もあり、あるいは聖職者が所属している組織によっても違うので一概には言えない。日本聖公会の場合には、他の教派と比べるとかなり制度的に整備されていると言える。ここでは、あえて個別的な問題には立ち入らないことにする。
現在では、聖職者が受ける生活資金は一応給与(サラリー)という言い方が一般的になってきた。問題はその給与とは一体何なのか。わかりやすくいうと謝礼なのか賃金なのかという問題である。謝礼ということになると、当然そこには感謝の気持ちが中心となり、賃金となると、労働に対する対価ということになり、聖職者の労働の質とか時間が問われることになる。当然、聖職者の労働を貨幣価値で評価できるのかという根本的な問題があるし、同時に教会側の支払い能力という現実的な問題もある。別な視点から考えると謝礼の場合は聖職者の生活費という意味づけが少なくなるが、賃金ということになると、聖職者とその家族のための生活費に対する責任が伴ってくる。
要するに、そこには問われるべき問題が山ほどあり、それは当事者間で協議するしかないであろう。聖職者のサラリーマン化ということが問題になる場合、そこにある重要な問題は聖職者の生き方の問題であり、より具体的には「勤務時間」の問題である。一般のサラリーマンのように、聖職者の場合勤務時間と勤務外の時間とを分けることができるのか、という問題である。さらには、聖職者の家族を一般のサラリーマンの家族と同様に考えていいのか、という問題もある。
このような現在の教会が抱えている聖職者の生き方についての問題を考える際に、パウロの聖職観を無視できるのだろうか。
5. パウロの本音
パウロはそのことについて一言で語る。パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(23節)と宣言する。これは非常に強い宣言である。福音のためなら、どんなにいやな仕事でも、つらい労働でも、またどんなに恥ずかしいことでも、あるいはそのことによって自分がどんなに悪口を言われようと、自分の評判がどんなに悪くなろうとも、損な役回りでも、喜んでする。結婚ということでさえ、「福音のため」という目的から外さない。その意味では、まさに「福音の奴隷」(19節)である。ローマの信徒への手紙の冒頭で、彼は自分のことを「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」(ロマ1:1)と自己紹介をしているが、まさに彼は彼自身のことを福音の奴隷と言い、どれとして生きた。奴隷には賃金は支払われない。奴隷は1年365日、24時間、100%と主人に所属し、主人のために生き、主人がその生活を100%責任を持つ。それが奴隷である。ここでパウロの聖職論の根本がある。にもかかわらず、パウロはそれをすべての聖職者に当てはめようともしないし、強制もしない。これがわたしの生き方だと言うだけである。

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