2009年 顕現後第5主日 2009.2.8
聖職の報酬問題 1コリント9:16-23
1. 福音のため
パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(23節)と宣言する。これは非常に強い宣言である。福音のためなら、どんなにいやな仕事でも、つらい労働でも、またどんなに恥ずかしいことでも、あるいはそのことによって自分がどんなに悪口を言われようと、自分の評判がどんなに悪くなろうとも、損な役回りでも、喜んでする。この福音のためということの具体的な内容は、「人を得るため」「その人が福音によって救われるため」であって、「福音の真理のため」というような神学とか、真理とか、思想のためにではない。
コリント第1の手紙第9章はパウロが聖職の資格を持っているのかどうかという疑問に対する答えとして書かれている。従って、ここを読む場合に、パウロは聖職としての自分の生き方を語っている箇所なので、信徒がここを読む場合にはそのつもりで読まなければならない。言い換えると、ここでのパウロは一般信徒の模範ではない。しかし、学ぶべき点は沢山あることも事実である。
2. どんなことでも
「どんなことでも」という具体的な内容として、「わたしは、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」と宣言する。「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のように」、「律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のように」、「律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のように」、「弱い人に対しては、弱い人のように、」そして、最後には「すべての人に対してすべてのものになりました」。これは言うのはやさしいが、具体的にそのように生きるということになると大変なことである。しかし、キリスト者が一般社会で生きる場合に、このパウロの生き方は非常に参考になる。色んな場面で、いろいろに当てはまる。要するに誰に対してでも心を開いて、相手を受け入れるということであろうか。イエスの言葉でいうと、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」(マタイ7:12)と同じ意味であろう。
3. 「なりました」
ここでパウロは、それを一つの覚悟とか、目標としている、というのではない。今、現にそういう生き方をしているという。ユダヤ人にはユダヤ人になり、ローマ人にはローマ人に、律法主義者には律法主義者に、罪人には罪人に、なりきる。懐が深いというか、それらが相互に矛盾対立しているとしても、その人と同じ視点に立つ。泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑う。
水戸黄門は「ちりめん問屋の隠居爺さん」(庶民)になりすまして、諸国を旅し、いろいろな事件を解決する。しかし、黄門さんは決して庶民になったのではない。もし、そうなら誰も黄門さんを格好いいとは思わない。最後に、格好よく「あおいの印籠」をかざして、水戸黄門に戻って、締めくくるのである。イエスの場合は「格好悪く」人間のまま、十字架で罪人として処刑されてしまうのである。パウロが、ここで「奴隷になりました」というとき、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(フィリピ2:6~8)」という言葉を頭の中で描いたのだと思う。
4. パートタイマーのキリスト者
世の中にはパートタイマーのキリスト者が大勢いる。ひどい場合には、クリスマスとイースターだけの「クリスタ-」と呼ばれる信徒もいる。わたしは、それはそれで結構だと思う。そうでないよりはよっぽどましだと思うからである。あるいは「サンデー・クリスチャン」もいる。それもそれで結構だろう。しかし、ここでわたしは言いたい。パートのキリスト者はパートの恩恵しか受けられない。もう少し厳密に言うと、同じ恩恵を受けていても、それを部分的にしか感じないということであろう。フルタイムのキリスト者には恵みもフルである。
コリントの信徒への第2の手紙の中で、パウロはこんなことを語っている。
「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(9:6~8)。
ここはエルサレムの信徒たちのための募金活動に関しての言葉であるが、内容的には同じことであろう。神は、わたしたちがそのためにどれだけ尽くすかということに応じて対応してくださる。少ししか捧げないものは少しだけ、多く捧げるものには多くの恵みを、パートにはパートの、フルタイムには溢れるばかりの恵みを与えてくださる。このことは、理屈ではなく、パウロ自身が牧会活動の中で実際に見てきた事実である、と思う。なぜなら、わたし自身も長い牧会生活の中で現実見てきたことである。
聖職の報酬問題 1コリント9:16-23
1. 福音のため
パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(23節)と宣言する。これは非常に強い宣言である。福音のためなら、どんなにいやな仕事でも、つらい労働でも、またどんなに恥ずかしいことでも、あるいはそのことによって自分がどんなに悪口を言われようと、自分の評判がどんなに悪くなろうとも、損な役回りでも、喜んでする。この福音のためということの具体的な内容は、「人を得るため」「その人が福音によって救われるため」であって、「福音の真理のため」というような神学とか、真理とか、思想のためにではない。
コリント第1の手紙第9章はパウロが聖職の資格を持っているのかどうかという疑問に対する答えとして書かれている。従って、ここを読む場合に、パウロは聖職としての自分の生き方を語っている箇所なので、信徒がここを読む場合にはそのつもりで読まなければならない。言い換えると、ここでのパウロは一般信徒の模範ではない。しかし、学ぶべき点は沢山あることも事実である。
2. どんなことでも
「どんなことでも」という具体的な内容として、「わたしは、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」と宣言する。「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のように」、「律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のように」、「律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のように」、「弱い人に対しては、弱い人のように、」そして、最後には「すべての人に対してすべてのものになりました」。これは言うのはやさしいが、具体的にそのように生きるということになると大変なことである。しかし、キリスト者が一般社会で生きる場合に、このパウロの生き方は非常に参考になる。色んな場面で、いろいろに当てはまる。要するに誰に対してでも心を開いて、相手を受け入れるということであろうか。イエスの言葉でいうと、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」(マタイ7:12)と同じ意味であろう。
3. 「なりました」
ここでパウロは、それを一つの覚悟とか、目標としている、というのではない。今、現にそういう生き方をしているという。ユダヤ人にはユダヤ人になり、ローマ人にはローマ人に、律法主義者には律法主義者に、罪人には罪人に、なりきる。懐が深いというか、それらが相互に矛盾対立しているとしても、その人と同じ視点に立つ。泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑う。
水戸黄門は「ちりめん問屋の隠居爺さん」(庶民)になりすまして、諸国を旅し、いろいろな事件を解決する。しかし、黄門さんは決して庶民になったのではない。もし、そうなら誰も黄門さんを格好いいとは思わない。最後に、格好よく「あおいの印籠」をかざして、水戸黄門に戻って、締めくくるのである。イエスの場合は「格好悪く」人間のまま、十字架で罪人として処刑されてしまうのである。パウロが、ここで「奴隷になりました」というとき、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(フィリピ2:6~8)」という言葉を頭の中で描いたのだと思う。
4. パートタイマーのキリスト者
世の中にはパートタイマーのキリスト者が大勢いる。ひどい場合には、クリスマスとイースターだけの「クリスタ-」と呼ばれる信徒もいる。わたしは、それはそれで結構だと思う。そうでないよりはよっぽどましだと思うからである。あるいは「サンデー・クリスチャン」もいる。それもそれで結構だろう。しかし、ここでわたしは言いたい。パートのキリスト者はパートの恩恵しか受けられない。もう少し厳密に言うと、同じ恩恵を受けていても、それを部分的にしか感じないということであろう。フルタイムのキリスト者には恵みもフルである。
コリントの信徒への第2の手紙の中で、パウロはこんなことを語っている。
「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(9:6~8)。
ここはエルサレムの信徒たちのための募金活動に関しての言葉であるが、内容的には同じことであろう。神は、わたしたちがそのためにどれだけ尽くすかということに応じて対応してくださる。少ししか捧げないものは少しだけ、多く捧げるものには多くの恵みを、パートにはパートの、フルタイムには溢れるばかりの恵みを与えてくださる。このことは、理屈ではなく、パウロ自身が牧会活動の中で実際に見てきた事実である、と思う。なぜなら、わたし自身も長い牧会生活の中で現実見てきたことである。