セパ交流戦がスタートした5月22日、千葉マリンスタジアムには中日を迎えていた。試合直前のセレモニーで私は打席に入った。投手は木樽正明氏。1974年の日本シリーズの再現である。当時は仙台を本拠地とするロッテオリオンズだったが、シリーズは後楽園球場で実施された。深まりゆく東北の秋の冷気と収容人員の少なさを考慮した選択だったが、この決断が地元のファンを怒らせ、翌年から川崎球場が一応のホームとなったものの、「ジプシー球団」とからかわれる状態だった。
日本一を掴んだ球団がまともなホームグランドももてない、それがプロ野球の実態だったのである。つまり、持てるものは奢(おご)り、持たざるものは耐える、他の損失は我が利益なり、という状態だった(過去形で書くべきか、現在進行形で書くべきか、迷うところだ)。
だが、ロッテは強かった。金田監督が拵えた投手王国は、冒頭に挙げたエース木樽、金田留広、成田の3投手に、先発・抑えに獅子奮迅の活躍をした若き村田兆治氏がいた。打者では弘田、山崎、有籐、ロペス、前田ら、強打者が並んでいた。我が中日が2勝4敗に終わったのは、弁解じみるが、巨人の10連覇をついに阻んだという快挙と、29年ぶりのリーグ制覇の快感に浸りすぎて、その余韻が大きすぎたためではないかとも思う。
5月半ば、千葉ロッテ事業部の森野氏(前フジテレビスポーツディレクター)から連絡が入った。「交流戦初戦のセレモニーとして、74年の再現を企画している。当時のユニフォームを着て打席に立っていただきたい。投手は木樽氏です」
「いいですよ。面白い企画ですね」私は即答し、急いで女房に電話した。「当時のユニフォームや帽子はあるか」と聞くと、「保管してありますよ」とあっさり答えられてしまった。記念のトロフィーなどと一緒に知人宅の倉庫に預かって貰っていたのだ。さすが我が女房と心の内で見直して、名古屋から東京に送ってもらい、バッグに詰め込んで、当日、球場へ向かった。
控室で着替えようとしたところ、木樽氏は「現在巨人軍のスタッフとしてお世話になっているので、ロッテのユニフォームは勘弁してください」という意向だとの連絡が来た。木樽氏らしい義理堅さである。それで、2人ともスーツ姿の登場となった。最近、懐古調のユニフォームを着て応援している熱狂的なファンを見かけるだけに、33年前のユニフォームに袖を通せなかったのは残念であった。
日本一を掴んだ球団がまともなホームグランドももてない、それがプロ野球の実態だったのである。つまり、持てるものは奢(おご)り、持たざるものは耐える、他の損失は我が利益なり、という状態だった(過去形で書くべきか、現在進行形で書くべきか、迷うところだ)。
だが、ロッテは強かった。金田監督が拵えた投手王国は、冒頭に挙げたエース木樽、金田留広、成田の3投手に、先発・抑えに獅子奮迅の活躍をした若き村田兆治氏がいた。打者では弘田、山崎、有籐、ロペス、前田ら、強打者が並んでいた。我が中日が2勝4敗に終わったのは、弁解じみるが、巨人の10連覇をついに阻んだという快挙と、29年ぶりのリーグ制覇の快感に浸りすぎて、その余韻が大きすぎたためではないかとも思う。
5月半ば、千葉ロッテ事業部の森野氏(前フジテレビスポーツディレクター)から連絡が入った。「交流戦初戦のセレモニーとして、74年の再現を企画している。当時のユニフォームを着て打席に立っていただきたい。投手は木樽氏です」
「いいですよ。面白い企画ですね」私は即答し、急いで女房に電話した。「当時のユニフォームや帽子はあるか」と聞くと、「保管してありますよ」とあっさり答えられてしまった。記念のトロフィーなどと一緒に知人宅の倉庫に預かって貰っていたのだ。さすが我が女房と心の内で見直して、名古屋から東京に送ってもらい、バッグに詰め込んで、当日、球場へ向かった。
控室で着替えようとしたところ、木樽氏は「現在巨人軍のスタッフとしてお世話になっているので、ロッテのユニフォームは勘弁してください」という意向だとの連絡が来た。木樽氏らしい義理堅さである。それで、2人ともスーツ姿の登場となった。最近、懐古調のユニフォームを着て応援している熱狂的なファンを見かけるだけに、33年前のユニフォームに袖を通せなかったのは残念であった。
74年の優勝の時の熱さの記憶、今でもありありと
残っています。
74、82、04のVが個人的に最高かと・・・
>33年前のユニフォームに袖を通せなかったのは残念であった。
実現していればNewsでも取り上げられたでしょうから
本当に残念です。
現在の中日のホーム用ユニは74~86yデザインの
オマージュですね?(監督の思い入れかな)
ご存知かと思いますが綱島理友氏のHPに
水原~与那嶺監督時代のユニの谷沢さんの画像が
ありますよ(あのデザインが一番好きです)
谷沢さん及びYBCの益々のご活躍を祈願しております