写真は、「京都思想逍遥」小倉紀蔵 ちくま新書 900円 税別
「京都思想逍遥」タイトルからして予期していたけど、そのぶっ飛びようが凄い。
P25から
「京都を歩くとは、どういうことなのだろうか。
それは、歴史を粉砕することなのである。
わらしたちが、無意識のうちに服従してしまっている、この、だれがつくったかもわからない、不気味で抑圧的な「歴史」というものに、抗うことなのだ。」
P29から
「ああ、きょうは言葉が飛んでいる。
そんな感じのする日がある。
道を歩いていて、言の葉がひらひら、舞っている。そのことにふと気ずくが、そのままほうっていると、いつのまにか桜吹雪のようにたくさんの言の葉がどこからともなく飛んできてしまって、わたしのまわりを回転しながら舞っている。」
P96から
「主体と主体が向き合う、というブーハー的な、あるいはカント的な主語的他者ではない、述語的な他者への考察が必要なはずなのである。西田は残念ながら、そこまで至っていないような気がする、というのがわたしの考えだ。
はたしてほんとうにそうなのだろうか。
知らぬ。」
P290から、
「だが京都のようなまちには、卒倒するほど無数の<たましい>がひしめきあっている。歴史的に千二百年以上、ひとびとが住んでいただけではなく、この土地を舞台として無数の芸術作品や思想・文化が生まれてきた。だからこそ京都は、ざわめき乱れる美の宝庫なのである。
しかしひとは、この恒常的な美の<いのち>の奔放さに耐えられるだろうか。美の堆積の深淵に、耐えられるだろうか」
読んでいて、何度も、このひとはだいじょうぶ、なのか、と、思った。
でも、相当、面白い。
そうだ、京都に行こう。