平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から88日目(6月6日、月曜日)。
また、大震災発生から88日目の新しい朝を迎えた。
早朝、新聞取りに自宅の庭に出る。ぼたんが例年になく背が高くなり、ピンクの大きな花を開き始めた。紫のアヤメも所狭しと可憐な花を咲かせている。ぼたんとアヤメのコントラストが庭を華やかにしてくれている。
真っ青な空。西はぼーとかすんでいる。
土鳩の鳴き声が響く。
さて、今日は「本人たちによる防災会議」(略称 本防災)⑧である。
************************************************
本防災準備のために次の本を購入した。
「増補版 地震から子どもを守る50の方法」(2011年5月15日初版第3刷発行)
著者 国崎信江
発行所 (株)ブロンズ新社
本防災を進める上で、参考になるハッとした箇所、なるほどと思った箇所を引用する。
【引用始め】
震度7はどんな揺れ?
町へ行く道3本が、土砂ですべて通行不可能!
下からドンと、突き上げてくるような衝撃があった瞬間、目の前のものがバラバラと落ちてきた。テレビやタンスが倒れ、花ビンは割れ、水びたしに、別べつの部屋にいた家族とは、「だいじょうぶ!?」「いまおりていくよ!」と大声で安全を確認。電気が消えた真っ暗闇の中で、しっかりしなきゃと思いながらも、気が動転してしまって・・・・・・。
地震がおさまり外に出ましたが、町の防災無線も機能せず、情報は皆無。とりあえず近所の人たちと、建物が倒壊する危険のない空き地に避難しました。夜露に濡れ、寒さがこたえました。子どもやお年寄りは、ビニールハウスやワゴン車で夜を明かしました。翌日、町へ出るための3本の道路が、すべて土砂で埋まっていることが判明。結局、2日間村に閉じこめられました。遠くまでわき水を汲みにいったり、村に1軒だけある店から、食べものを持ってきたりしてなんとかしのぎました。
結局、自衛隊の到着を待つ前に、自分たちでパワーシャベルを出し、土砂を除去。地震発生から2週間後、子どもが発熱。妙にハイテンションになったり、私にまとわりついてきたり、怒ったり、怯えたりと、ふだんと違う行動が目立ちました。私も、地震発生後、疲れやショックからか、気持ちがふさぐ状態がしばらく続きました。(p.12)(新潟県中越地震)
朝礼台の下の長くて不安な夜
避難のため家を出るときは、1歳の子どもの防寒具に、マジックで身元を書いた布をつけました。
それほど、自分自身の命に危機を感じていました。
もし私たちが死んでも、子どもだけは助かってほしいと祈るような気持ちで名前を書いたのを覚えています。
私たちが住んでいたのは、神戸市東灘区の古いマンション。幸いにも、被害は少なくてすみました。でも、周囲の状況からすると、次はこのマンションが壊れるかもしれない。逃げだしたいけれど、外だって何があるかわからない。暗くなるにつれて、ますます不安がつのりました。最終的に、小学校のグラウンドへ同じマンションの人と避難しました。
せめて夜露ぐらいはしのげるようにと、グラウンドの真ん中へ朝礼台を引っぱってきて、その下に入りました。
その夜はいままででいちばん長く、夜明けがくることが信じられないくらい、つらい時間でした。地面に薄い敷物を敷いて座っていたので、余震の地鳴りが背筋に響きました。(p.13)(阪神・淡路大震災)
【引用終わり】
************************************************
本人たちによる防災会議を実施するにあたって、地震等の災害によってどんな状況になるか、具体的な話しをすることから始めようと思っている。
上記の実体験は本人たちにもその大変さが伝わるはずだ。
家が壊れるだけでなく、土砂崩れが起こり、町の様相まで変わってしまう。
外で一夜を過ごすことにもなる。
こうした話しの後で、本人たちも自分が東日本大震災の時どんな状態にあったかについて、話しやすくなる。
本人たちが話ししやすくなる手かがりを工夫して、防災会議に参加して良かったといえるようにしたい。
他の人の体験を参考にして、自分の活動に生かす。
夜露の中で夜明けがいつくるか不安な中、隣同士の人たちと励ましてあって朝礼台の下で過ごした。
その話は、「明けない夜はない」ことを信じて夜明けを待った人たちの真に迫った体験である。
(ケー)
また、大震災発生から88日目の新しい朝を迎えた。
早朝、新聞取りに自宅の庭に出る。ぼたんが例年になく背が高くなり、ピンクの大きな花を開き始めた。紫のアヤメも所狭しと可憐な花を咲かせている。ぼたんとアヤメのコントラストが庭を華やかにしてくれている。
真っ青な空。西はぼーとかすんでいる。
土鳩の鳴き声が響く。
さて、今日は「本人たちによる防災会議」(略称 本防災)⑧である。
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本防災準備のために次の本を購入した。
「増補版 地震から子どもを守る50の方法」(2011年5月15日初版第3刷発行)
著者 国崎信江
発行所 (株)ブロンズ新社
本防災を進める上で、参考になるハッとした箇所、なるほどと思った箇所を引用する。
【引用始め】
震度7はどんな揺れ?
町へ行く道3本が、土砂ですべて通行不可能!
下からドンと、突き上げてくるような衝撃があった瞬間、目の前のものがバラバラと落ちてきた。テレビやタンスが倒れ、花ビンは割れ、水びたしに、別べつの部屋にいた家族とは、「だいじょうぶ!?」「いまおりていくよ!」と大声で安全を確認。電気が消えた真っ暗闇の中で、しっかりしなきゃと思いながらも、気が動転してしまって・・・・・・。
地震がおさまり外に出ましたが、町の防災無線も機能せず、情報は皆無。とりあえず近所の人たちと、建物が倒壊する危険のない空き地に避難しました。夜露に濡れ、寒さがこたえました。子どもやお年寄りは、ビニールハウスやワゴン車で夜を明かしました。翌日、町へ出るための3本の道路が、すべて土砂で埋まっていることが判明。結局、2日間村に閉じこめられました。遠くまでわき水を汲みにいったり、村に1軒だけある店から、食べものを持ってきたりしてなんとかしのぎました。
結局、自衛隊の到着を待つ前に、自分たちでパワーシャベルを出し、土砂を除去。地震発生から2週間後、子どもが発熱。妙にハイテンションになったり、私にまとわりついてきたり、怒ったり、怯えたりと、ふだんと違う行動が目立ちました。私も、地震発生後、疲れやショックからか、気持ちがふさぐ状態がしばらく続きました。(p.12)(新潟県中越地震)
朝礼台の下の長くて不安な夜
避難のため家を出るときは、1歳の子どもの防寒具に、マジックで身元を書いた布をつけました。
それほど、自分自身の命に危機を感じていました。
もし私たちが死んでも、子どもだけは助かってほしいと祈るような気持ちで名前を書いたのを覚えています。
私たちが住んでいたのは、神戸市東灘区の古いマンション。幸いにも、被害は少なくてすみました。でも、周囲の状況からすると、次はこのマンションが壊れるかもしれない。逃げだしたいけれど、外だって何があるかわからない。暗くなるにつれて、ますます不安がつのりました。最終的に、小学校のグラウンドへ同じマンションの人と避難しました。
せめて夜露ぐらいはしのげるようにと、グラウンドの真ん中へ朝礼台を引っぱってきて、その下に入りました。
その夜はいままででいちばん長く、夜明けがくることが信じられないくらい、つらい時間でした。地面に薄い敷物を敷いて座っていたので、余震の地鳴りが背筋に響きました。(p.13)(阪神・淡路大震災)
【引用終わり】
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本人たちによる防災会議を実施するにあたって、地震等の災害によってどんな状況になるか、具体的な話しをすることから始めようと思っている。
上記の実体験は本人たちにもその大変さが伝わるはずだ。
家が壊れるだけでなく、土砂崩れが起こり、町の様相まで変わってしまう。
外で一夜を過ごすことにもなる。
こうした話しの後で、本人たちも自分が東日本大震災の時どんな状態にあったかについて、話しやすくなる。
本人たちが話ししやすくなる手かがりを工夫して、防災会議に参加して良かったといえるようにしたい。
他の人の体験を参考にして、自分の活動に生かす。
夜露の中で夜明けがいつくるか不安な中、隣同士の人たちと励ましてあって朝礼台の下で過ごした。
その話は、「明けない夜はない」ことを信じて夜明けを待った人たちの真に迫った体験である。
(ケー)