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お墓のこと

2023年9月25日(月)晴れ。今日は少し暑く28℃。最低17℃。それでも30℃未満だと涼しく感じるのが怖い。


お彼岸期間中はお墓にお花を持っていきお墓参りしたりする。お盆はご先祖が帰ってくるけど、お彼岸は違う。昔一度記事にしている。「1週間の間に少しは心を磨き鍛えて、彼岸の世界と通じ合えるように、先祖への感謝と供養と自然への感謝や祈りを行います。( お彼岸の入り)」ということ。
しかし、そもそも仏教イコールお墓ではない。日本人はいろんなことをごちゃまぜにして自分たちの文化にしてしまう特徴があるのと、その時代の支配者や宗教、法なども影響している。


お墓の語源や由来については諸説ある。
「果処(はてか)」や「葬処(はふりか)」の他に「遥か(はるか)」や「儚し(はかなし)」(生と死の間が遥かだという考え)という説もあるようだ。

土葬の歴史
縄文時代には土葬で丁寧に葬っている。墓はないが、人間の墓地のような領域が決められていたようだ。単に穴を掘り、そこに亡くなった人をかがめるような姿勢にして埋めていて、土坑墓(どこうぼ)と呼ばれている。副葬品も埋められているから、すでに故人を弔う文化があったと考えられている。
縄文時代はすごいのだ!!!
 
その後は古墳時代の身分の高い権力者だけのお墓「古墳」があらわれる。
 
飛鳥時代に入り大化の改新で「薄葬令(はくそうれい)」という勅令が出されて、身分に応じて墳墓の規模などが定められたそうだ。
 
平安時代に入ると、仏教思想が貴族を中心に広まり始めます。お寺や塔の建立が盛んになる。
 
鎌倉時代に入ると一般庶民にも仏教が浸透していき、埋葬方法も従来の土葬と火葬の両方が存在していたそうだ。
しかし、一般庶民には墓石はなかった。

一般庶民がお墓を建てられるようになったのは、江戸時代の中期だといわれている。そして土葬が主体になる。
武士のお墓には板塔婆や石塔婆が建てられるようになる。
今のお墓の原型みたいだ。
 
もう一つ江戸時代の特徴は、民はどこかの寺の檀家にならなければならないという、寺請制度を設けていた。住居や職業などの住民情報を寺で管理するようになった。
 それにより、それまで一人一つのお墓が家族や一族のお墓となった。
地下に納骨室を設け、その上に墓石を建てる形が普及したようです。

明治維新ではこの寺請制度が廃止され、墓地の縛りが無くなった。
そして埋葬に場所を取る土葬に代わり、場所を取らない火葬が都市部で一般化した。
少しづつ地方でも火葬が一般的になるけど、地方では昭和初期の段階でも、火葬と土葬はほぼ半々の割合だったようだ。
私が30歳くらいの時、土葬の葬式に参加してびっくりした記憶がある。

今のような立派な墓石は1900年頃以降に増えている。そして今は、「無縁墓」が増え墓じまいの費用がどうのこうので混乱している。

お墓に縛られることはない。自分の心の中にご先祖はいるのだから。ご先祖を敬う自分の心こそを大切にしなければ。
「私のお墓の前で 泣かないでください。そこに私はいません 眠ってなんかいません。」と言われますからね。なんとなくですけど・・・。

参考 
お墓に関する法律は1948年に制定された「墓地、埋葬等に関する法律」略して「墓地埋葬法」。埋葬する時や、お墓を移す時には、自治体への届け出が必要。
だから、遺骨は散骨する場合を除いては、お墓に入れるか、自宅保管するしかないようだ。 遺骨を埋葬するためには埋葬許可証が必要であり、自治体より許可を受けた施設(墓地や霊園)以外に遺骨は埋葬できません。 
落とし物の遺骨があるそうですよ。大体落とし主は見つかっていない。

参考
『令和時代のお墓入門(樺山玄基氏)』(幻冬舎)
参考



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