差出人が有馬村名主でなく、親類の、前のお徳の請人中里村名主であるのは不自然である。
四年の奉公中何があったかは不明であるが、妻子のあった千代松の正式の女房に成ったので
あるから、驚悍ぶりには驚かされる。相当の遣り手である事は確かである。
まず五目牛村と菊池千代松家について概述しておきたい。
五目牛村は、村高二四七石九斗三升六合の中規模の村落である。
田方が十二町四反五畝二十歩、畑方が十八町ハ反七畝九歩、田畑比四対六で構成され、
畑方優位の上州村落らしさを有している。
明治四年(一八七一家数六四、平均持反別四反九畝で、
小農の再生産可能の水準規模に適合している。
千代松家は菊池の姓を私称し、平均の三倍強の一町六反一敏二九歩
(畑九反七畝二十四歩・田六反四畝五歩)を
保有して、村内上層に位置する。拡大生産の余力を秘めた経営規模である。
五目牛村は小給旗本平岡四郎兵衛の知行所、御多分にもれず借財に追われる台所事情のため、
年貢を担保に肩代りしては江戸への送金を行っている。
これも上州村落の治安の悪さの要因の一つである。
領主は完全に村落支配の実権を失っている。
続く