アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の参

2015年01月17日 | 近世の歴史の裏側

差出人が有馬村名主でなく、親類の、前のお徳の請人中里村名主であるのは不自然である。

四年の奉公中何があったかは不明であるが、妻子のあった千代松の正式の女房に成ったので

あるから、驚悍ぶりには驚かされる。相当の遣り手である事は確かである。

まず五目牛村と菊池千代松家について概述しておきたい。

五目牛村は、村高二四七石九斗三升六合の中規模の村落である。

田方が十二町四反五畝二十歩、畑方が十八町ハ反七畝九歩、田畑比四対六で構成され、

畑方優位の上州村落らしさを有している。

明治四年(一八七一家数六四、平均持反別四反九畝で、

小農の再生産可能の水準規模に適合している。

千代松家は菊池の姓を私称し、平均の三倍強の一町六反一敏二九歩

(畑九反七畝二十四歩・田六反四畝五歩)を

保有して、村内上層に位置する。拡大生産の余力を秘めた経営規模である。

 五目牛村は小給旗本平岡四郎兵衛の知行所、御多分にもれず借財に追われる台所事情のため、

年貢を担保に肩代りしては江戸への送金を行っている。

これも上州村落の治安の悪さの要因の一つである。

領主は完全に村落支配の実権を失っている。

                         続く