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アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

幻の民サンカ 其の34  有る、サンカの女性の生涯Ⅱ

2015年10月22日 | 近世の歴史の裏側

前回から続き、 このうち第一子の男(若いころ農薬自殺)は ついに無籍のままであつた 残る九人を私生児

として自分の籍に入れたが その生年ことされると届け出のあいだには順に九年 六年 三年 ほぼ同時に以上は昭和十八年二月に一括して届け出十八年、ほぼ同時に十二年、八年、七年(以上は ほぼ同時を除いて昭和三十九年十一月 第二子が一括して届け出)と大きな開きがあった、

最初の一括届け出の時、一家は埼玉県大里郡吉見村小八林(現熊谷市小八林)の木賃宿で暮

らしていた 太平洋戦争のさなかで 以前のように天幕や ほんの何時間かで建てられる小屋に

寝泊まりしながら各地を漂浪する生活が、むづかしくなっていたのである 

前年の昭和十七年二月には食指管理法が公布され 米麦その他の主要食糧の配給制度が始まっ

ていた。無籍では その配給を受けることができない ちょうどそんな折り戸籍上の第四子(女)

が誕生し これをきっかけに四人の子をいっぺんに入籍したのである 配給制度にうながされるように

して戸籍を得たミナオシは ほかにも少なくなかった それまで日本にわずかに残っていた、

無籍者たちは 第二次大戦を境にしてほぼ消滅したといえる 

 二回目の一括届け出は ヒロが死亡しておよそ一年後のことである この昭和三十九年ごろに

なると 福祉制度もしだいに充実してきて 九人もの子供が学校へも行かず河原の小屋で暮らし

ていることを放言しておけないという声が起きたのである まわりのだれが中心になってのこと

かわからないが 調べてみたら四人には籍がない それで とにかく就籍の手続きをとらせ そ

のあと戸籍上の第六子以下の四人は埼玉県内のある施設にあずけられ そこから学校へ通うこと

になったのだった しかし 上の二人は問もなく「脱走」義務教育を終えたのは第八子(男)と

末っ子(女)の二人だけであった。

 

                          つづく


幻の民サンカ 其の33  有る、サンカの女性の生涯

2015年10月21日 | 近世の歴史の裏側

有る、サンカの女性の生涯

 久保田辰三郎の妻 松島ヒロには戸籍があった 

 昭和四十九年三月作成の謄本には本籍 東京都台東区万年野六〇番地 大正四年(1915)

二月三日 埼玉県北足立郡桶川町八八番で出生と記されている。

但しヒロの出生当時 万年町は東京市下谷区に所属しており いまの台東区北上野に当たる。

また桶川町は現在は桶川市となっている 

 ちなみに下谷万年野は上野駅のすぐ北東側の一角で 昭和の初めごろまでは四谷の鮫ケ橋、芝

の新網町と並んで東京の「三大貧民窟にの一つとされていた街だった。 

 ヒロの母親は松島ステといつたが 本籍 生年その他は不明である 戸籍の父親の欄には何も

書かれていないので ヒロはステのいわゆる私生児として届けられたと思われる その届け出は 

生年とされているときから実に一二年後の昭和二年(1927)のことであった。 

似たようなことは ヒロ自身の子供たちにも行われている ヒロは辰三郎と一緒になる前に、

同じミナオシ仲間のユウジにと呼ばれていた男性との間に男 女 女と三人の子をもうけていた。

すなわち生涯に十人の子を産んでいる。

                                                                 つづく

 


幻の民サンカ 其の32 有る、サンカの生涯

2015年10月18日 | 近世の歴史の裏側

有る、サンカの生涯

昭和四十四年十一月十三日、

埼玉県坂戸市島田一〇四番地の農家の物置きで一人の男が病死した。

 男は久保田辰三郎の通称で周囲の人びとに知られていた。ずっとのちに建てられた墓石にも

そのように刻まれているし、子供たちもそれが父親の名前であったと話している。

 しかし、男が無縁墓地に土葬された同県東松山市高坂の賛詞宗高済寺の過去帳には「俗名堀口

伊太郎、姶(長男の名前)父、箕修理業、昭和四十四年十一月十三日午前零時五分死亡、明治二

十五年七月十五日生まれ、七十七歳、住所埼玉県入間郡板戸町紺屋、本籍栃木県足利郡御喰屋町

島田」と記されている。

 右の名前や生年などを当時の同寺住職に、だれが伝えたのか確かめることができない。家族で

なかったことは、はっきりしている。死者は、この数年前まで農家のすぐ先を流れる越追川の河

原に、篠竹や茅を九耳いた粗末な小屋を作って住んでいた。そこへ「戸口調査」にやってきた警察

官に、本人が答えたことが過去帳の記載となって残った可能性が強いように思われる。

とにかく男が生前 少なくとも二つの名前を用いたことかあったことは間違いない どちらが

本名か、あるいは両方とも偽名で本当の名前は別にあるのか この問いには男自身も答えられな

かつたろう。男は生涯を通じてずっと無籍であり もともと本名などというものはなかつたから

である、もちろん家族や仲間のあいだでの呼び名はあった それは例えば「イタ」とか「タツ」

といった、ごく短い音節の通称ともいえない様なものだろう、姓もなければ 呼び名にしても、

どんな漢字を書くということもなかった 文字能力を全く矢いていたので 漢字うんぬん

など男にとってどうでもよいことであった。 それでは、以後の記述上不便なので「久保田長三郎」を

男の姓名として話を進めて行きたい。

長三郎が無籍であつたとするなら なぜ過去帳に本籍が記されたのだろうか?

栃木県足利郡御喰屋町は正しくは御厨町島田(現足利市高田町)だがおそらく戸口調査の際、

警察官にしつこく問い詰められ 苦しまぎれに かつて住んだことが

あつたか、少なくとも何度か行ったことがある地名を口にしたのでは無かったが、 

辰三郎の長男 始は少年のころ一度だけ父親の「実家」を訪ねた事があった。

 

                                  つづく


幻の民サンカ 其の31

2015年10月17日 | 近世の歴史の裏側

前回に、続き、したがって同書に所謂「三家者」を解して、

三家者藁履作、秤作、弦差也。抑坂者トハ亦云二皮※[#「广+(十+十)/日」、137-10]一。入レ京覆レ面也。是諺云燕丹也。燕丹ハ燕国王楚国王ニ被二追出一、来二此播磨国一云、我ヲ可レ為二此国王一。此国人笑テ突出。故食二牛馬一渡レ世。其末孫或云二伯楽一或云二連索一、(注略)或云二唐土一。世云二一。(下略)

  と云っているのは、その当時の所伝として貴重なる文字だと言わねばならぬ。ここに燕丹とはエタの事である。この説は既に室町時代に行われたもので、蔭涼軒日録(長享二年八月十一日及び卅一日条)にもその事が見えている。燕丹のこともとより僻説取るに足らぬものではあるが、しかし右の袋中の記事によって、かつては藁履作りや秤作り、ないし弦差の輩をエタと云い、それをサンカともとも云っていた事が知られるのは面白い。

 エタが皮作りの職人のみでなく、かつては浄人(塵袋)をも、(※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢抄)をも、青屋(三好記雍州府志)をも、エタの名を以て呼んでいた事は、「エタと」(三巻六号)の条下にも既に説き及んでおいた事である。すなわちもとはその語の及ぶ範囲が極めて広かったもので、徳川時代の法令に所謂エタは、ただその中の或る限られたる一部分に過ぎないのであった。そして戦国時代以来の実際に通暁している筈の袋中和尚は、そのエタすなわち所謂「燕丹」を以て、藁履作・秤作・弦差の徒となし、これすなわち三家者で、或いはともいうと説いているのである。しからばすなわちその当時にあっては、少くも京都では広くの通称として、サンカモノの語を用いていた事が察せられる。

 袋中はさらにそのサンカモノの語を解して、坂ノ者の転音だと云っているのである。坂ノ者とはもと京都東山の五条坂あたりに居た一種の部族で、賀茂河原に居た川原者と相対して、しばしばその名が古書に見えているものであった。師守記貞治三年六月十四日条に、祇園の犬神人たる弦差と田楽法師との喧嘩の事を記して、

 

田楽与犬神人有二喧嘩事一。是田楽乗レ馬、通二犬神人中一之間、無礼之由問二答之一自レ馬打落云云。田楽人於二当座一被二殺害一、坂者被レ疵云云。以ノ外也。

 

 とある。ここに坂者とは、明らかに上文の犬神人の事である。犬神人は五条坂に住んで、一方では祇園の神人であり、一方では毘沙門経読誦の声聞師であり、そしてその内職としては弦指に従事してつるめそと呼ばれ、後に或いは夙とも呼ばれた一種の賤者であった。師義記に、貞治四年祇園御霊会の神輿を舁いだとあるエタも、おそらくこの犬神人の事であったと解せられる。そして右の田楽殺害の事件はまた東寺執行日記にも見えて、「新座田楽幸夜叉、為二坂物一被二殺害一云云」とある。以て当時この犬神人に対して、サカノモノの語が普通に用いられたことを知るに足ろう。

 坂の者と云い、川原者というは、共にその住居の有様から得た名で、けだし市街地または田園等に利用すべき平地に住むをえず、僅かに京都附近の空閑の荒地を求めて住みついた落伍者の謂であった。そして掃除・警固・遊芸その他の雑職に従事し、或いは日雇取を業としておったものであった。これらの徒は地方によって、或いは山の者・谷の者・野の者・島の者・堤下などとも呼ばれているが、いずれも皆同一理由から得た名と解せられる。その坂の者という名も、必ずしも京の五条坂の部族のみに限った訳ではない。蔭涼軒日録文正元年二月八日条には、有馬温泉場の坂の者の名も見え、大乗院寺社雑事記には応仁・文明頃の奈良符坂寄人の事を坂衆・坂座衆、或いは坂者などとも書いてある。

 かく地方によって種々の名称があるにしても、結局は同情すべき社会の落伍者等が、都邑附近の空閑の地に住みついて、種々の賤業にその生活を求めたものであって、特に京都では坂の者・の名で知られ、それが通じてはエタとも、とも呼ばれていたものであったのである。そしてその称呼は時に彼此相通用し、その実をもしばしば坂の者と呼び、坂の者をも或いはと呼ぶ事にもなったらしい。しかるに後世では次第にその分業の色彩が濃厚となって、の名がその実河原住まいならぬ俳優のみの称呼となったが様に、坂の者の名がサンカモノと訛って、特に漂泊的賤者の名として用いられることになったのであろう。賤者の名称が同じ程度の他のものに移り行く事は、もと主鷹司の雑戸なる餌取の名が、エタと訛って浄人・等にも及び、はては死牛馬取扱業者にのみ限られる様になった例もある。その京都の坂の者の後裔はつるめその名を以てのみ呼ばれて、本来の坂の者の称を失い、かえってその転訛たるサンカモノの名が、別の意味において用いられる様になったのも、必ずしもあえて不思議とする程ではない。かくて近時に至っては、オゲ・ポンスケなど呼ばれた他の地方の漂泊民にまで、その名が広く普及しつつあるのである。

 坂の者がサンカモノと訛ったとの袋中の説は、最も信用すべきものとしてこれを祖述するを憚らぬ。彼らの本来坂の住民たりしことが忘れらるるに及んでは、それが訛りの多い京都人によってサンカモノと転倒して呼ばるるに至ったものと思われる。かかることは上方地方に古今その例が多い。冷泉をレンゼイ(後にはさらにレイゼイと訛る)、定考をコウジョウ、称唯をイショウ、新たしいをアタラシイ、身体をカダラ、茶釜をチャマガ、寝転ぶをネロコブという類みなこれである。釣瓶をツブレ、蕪をカルバ、汐平をヒオシという地方のあるのもまた同じことで、古くは佐伯を「叫び」の訛だと解し、近くはモスリンをメリンスの転音なども、また同一のものである。かくてそのサカノモノがサンカモノと呼ばるるに至ったのは、極めて自然なる転音と言わねばならぬ。

 これを要するに、サンカモノとは本来坂の者の義で、寛元二年の奈良坂文書(四巻一号四頁及び本号〔「民族と歴史」四巻三号〕一九頁)に見ゆる鎌倉時代の清水坂のの称であった。しかるにそれが室町時代には主として祇園の犬神人の名に呼ばれることになったのは、彼らが、もしくは彼らの一部が、南都末の清水寺から離れて北嶺末の祇園感神院の所属となり、犬神人として著名になった為であろう。かくて、それが一般賤者の上に及んで、京都では徳川時代の初期までも広くエタ・等の通称として用いられ、後にはその一部たる漂泊生活の最落伍者の称呼となったものと解せられるのである。なお次号掲ぐる奈良坂清水坂両所の悶著に関する研究を参考されたい。

 

原本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社

   2008(平成20)年1月30日初版発行

原本:「民族と歴史 第四巻第三号」

   1920(大正9)年6月号  より引用

 

                               つづく


幻の民サンカ 其の30

2015年09月19日 | 近世の歴史の裏側

しからばサンカとは果していかなる語であろうか。これについては了蓮寺伊藤祐晃師の示された泥之道という書に、

 三家者位牌事

三家ハ日本ニハ云フ二坂者ト一。取テレ音ヲ呼ブレ訓ニ故也。

 とあるのが最も面白い説と思われる。この書は寛永十一年に袋中和尚の著わしたものである。和尚はその名を良定と云い、

京都三条畷の檀王法林寺の開山で、寛永十一年の当時九十一歳の老齢であった。その書名の泥※(「さんずい+亘」、

第3水準1-86-69)とは涅槃の義で、したがってこの「泥※(「さんずい+亘」、第3水準1-86-69)之道」は、死者の葬儀や位牌の書き方等を

示したものである。王公卿相以下、所謂三家者のの徒に至るまで、それぞれにその身分に応じて位牌の書き方を例示してある。

その著者袋中は寛永十一年に九十一歳だとあってみれば、その生誕は天文十三年で、江戸時代以前の故事もかなり知って

おったであろうし、特にその長年月間扱い慣れていたところから、所謂サンカモノの何であるかくらいの事は、

よく通暁しておったに相違ない。

                                                             つづく


幻の民サンカ 其の29

2015年09月17日 | 近世の歴史の裏側

サンカ人の生活様式を端的に表わす言葉に『一所不住、一畝不耕』なるものがあ

る。言いかえれば「非定往、非所有」という思想である。国家の支配・締めつけを

拒否し、搾取と収奪から自由になるということは、同時に

身に受けることである。その恪印を焼きつけられてなお、所詮権力が作ったシバリに過ぎぬと

歯牙にもかけず、それより価値あるもの・守りものを守り通すものとして「自然

とともに生きる漂泊人・自由入」の道を選んだ。その核となる思想が「無」なの

である。ものの無いことに苦しむのではない。むしろなにも持とうとしない無なの

だ。この「無」に対しては、支配・束縛の入り込む余地はない。ゆえにすべての呪

縛からの解放がある。そしてただ自然とともに在る。

                                          つづく


幻の民サンカ 其の28 体源抄十に 

2015年09月17日 | 近世の歴史の裏側

体源抄十に、前草は始はくゞつにて、後は遊女になりて、両方の事を知りてめでたかりけり。(以上は柳田君も松屋筆記により引用せらる)前草が云ひけるは、歌は第一の句を短く歌ひて吉なりとぞ云ひける。又云ふ、今様は本体は律なり。然而呂律倶に存也。

くゞつの様は呂音に歌ふなり。比巴法師の歌又呂音也。而傀儡の体にあらで、直ぐ歌ひながら、呂音に歌うがめでたきなり。

歌女駒(人名)が歌其様なり。

  とある。すなわち歌をうたうに堪能な遊女であったのである。この頃にあっては松屋筆記に既に注意してある如く、

傀儡と遊女との間にはその別があって、両者間の歌の歌い方にも相違があり、遊女は今様を律の音に歌うが、

傀儡は呂の音に歌うという様な事であったと見える。かくて散木集の家綱の連歌の詞書は、

 

伏見に傀儡のシサムというものが来たので、遊女のサキクサに合せて歌を歌わせようと之を呼びに遣わしたところが、

前に居た宿にサキクサは居ないと云って来なかったので

  と解すべきものであろう。かく解してこそその歌も、「うから(れ)めなるサキクサはうかれて宿も定めぬか、

傀儡まわしのシサムは廻り来て居る」の意に解いてよく通ずるのである。

「くぐつ」と「くぐつまわし」とはもと必ずしも同一とは思われぬが、これは歌詞の都合上から、「廻り来て居り」と言わんが為に、

ことさらに「くぐつまわし」と云ったのかもしれぬ。しかし「くぐつ」にしても「くぐつまわし」にしても、それをその頃において

「くぐつし」と云ったとは思われぬ。これは平安朝に傀儡子と書いたのを後に人形遣いのみのこととして傀儡師と書くようになっての

後の事であろう。したがって右の連歌の詞書は、「傀儡師なるサムカ」ではなくて、「傀儡なるシサムが」と見るべきものであろう。

 果してしからば右の連歌は、まことに面白い発見ながら、未だ以て、平安朝当時からして既にサンカの語があったという証拠にも、

また傀儡を一にサンカと云ったらしい証拠にもならぬ様である。

                                                                       続く

 


幻の民サンカ 其の27 サンカ者名義考 

2015年09月11日 | 近世の歴史の裏側

サンカモノは坂の者

喜田貞吉は、京都あたりでは一種の浮浪民を、サンカまたはサンカモノと呼んでいる。東山や鴨川堤などに臨時の小屋を構えて住んでいるものは、そのやや土着的性状を具えて来たものと思われるが、それでもやはり戸籍帳外のものとしてしばしば警察官から追い立てを喰って他に浮浪せねばならぬ運命を免れない。その或るものは数年前から警察や役場のお世話になって、今は在来の或る「特殊」に接した地に借屋住まいをなし、別に一つのをなして戸籍にも編入せられ、日雇その他の労働者として立派に一人前の帝国臣民たる資格を具えることになっているが、それでもなお「旧民」からは、「あれはサンカじゃ」と云って、その仲間扱いにはなっていないらしい。

 京都あたりではサンカという類のものを、自分の郷国阿波などでは、オゲ或いはオゲヘンドという。尾張・三河あたりではポンとかポンスケ・ポンツクなど云っているそうである。かの四国・九州あたりで勧進・禅門西国など呼ばれる仲間にも、この徒が少くないらしい。現に竹細工などをして漂泊しているものに対しては、その職業によって、箕直し或いは竹細工などと呼ぶ地方もある。柳田君によれば、ノアイとも、川原乞食とも呼ぶことがあるという。またその種類によって、セブリ・ジリョウジ・ブリウチ・アガリなど呼んでいることもあるという(人類学雑誌「イタカ及びサンカ」)。

 各地方により種類によって、種々の名前があるにしても、近来はサンカという名称で、広く彼らを総括する様な風潮になっているかの如くみえる。そしてその文字には、普通に「山窩」と書く様になっている。これは大正三年頃の大阪朝日の日曜附録に、鷹野弥三郎氏の「山窩の生活」と題する面白い読物が連載せられたのが、余程影響を与えているものらしい、それ以来地方の新聞などでも、浮浪漂泊もしくは山住まいの凶漢悪徒の記事などの場合には、往々「山窩」の文字を用うることになっている様に見受けられる。しかし彼らが山の穴住まいをなすことは、むしろ稀な場合であって、柳田君も既に言われた如く、勿論この宛字は意義をなさぬ。芦や穴住まいをしているものについての称呼だとしても、それをむつかしく「山窩」など書いて、それが俗称になったとは思われない。

 サンカのことの学界において論議せられたのは、自分の見た限りでは柳田君の「イタカ及びサンカ」(人類学雑誌明治四十四年九月、十一月、同四十五年二月)が初めであるらしい。同君は職人尽歌合にあるイタカとこのサンカとを併せ叙して、彼らと売春婦との関係に及び、一種の娼婦をヨタカと云いソウカと云うは、イタカ及びサンカの語と関係があるらしいと説いておられる。そしてそのサンカの語そのものについては、「本義不明なり」というのみにて、その説明を試みておられぬが、その名称の由来はすこぶる古いものと解しておられるらしい。すなわち平安朝末期の散木奇歌集に、

 

伏見にくゞつしさむががまうで来りけるに、さきくさに合せて歌うたはせんとて、呼びに遣はしたりけるに、もと宿りたりける家にはなしとて、まうで来ざりけれは[#「けれは」はママ]、

 うからめは、うかれて宿も定めぬか  つくくゝつまはしは廻り来て居り

 

 という連歌を引証して、サンカという語の古く見ゆる例とされているのである。さすがに博学なる柳田君だけあって、うまいものを見付け出されたとひたすら敬服の外はない。しかしながらこれは柳田君も既に言われた如く、「ただ一つの証なれば誤字等も計り難い」という以外に、実は本来「くゞつし(傀儡師)なるサンカ」と読むのではなくて、「くゞつなるシサムという名の者がもうで来りけるに」と読むべきものではなかろうかとの疑いがある。柳田君は右の連歌の詞書の中なる「さきくさ」を「人形芝居の一曲なるか」と解しておられるが、これは曲名ではなくて遊女の名であった。

                                          つづく


幻の民サンカ 其の26 山窩物語

2015年09月06日 | 近世の歴史の裏側

 「もののけ姫」という映画で、宮崎駿はサンカをはじめとする人々を描いたようである。

サンカとタタラ族との深い繋がり、もののけ姫の名前がサンという事とアシタカという名から連想される先住民、彼らがハンセン病患者達を助けたという事実がそれを考えさせるのである。作家の椋鳩十は、自然に生きる漂泊民として詩情豊かに描き、自由に生きる人間の原風景を呼び起こした。「戒厳令の夜」「風の王国」など五木寛之の作品では、国家の規制を超えて独自の文化をもち、管理社会の下で閉塞した状況に風穴を開ける集団として登場している。中島貞夫監督の映画「瀬降り物語」(85年)では、山々を流浪する孤独な生活を萩原健一が好演した。

 

 サンカと呼ばれる人々はハンセン病や色んな事情があって山に逃げてきた人たちをとても良く面倒みたりもした。今の破壊された地球において、自然を愛し共生する自発的貧困とも言える質素、簡素、素朴な生活を送り、真の豊かさを知り、自由で矜持高く、弱きものを愛する事のできるサンカこそが、今の日本に一筋の光を差す、真の生活を送っているのかもしれない。

つづく


幻の民サンカ 其の25 昭和の山窩

2015年09月03日 | 近世の歴史の裏側

昭和の山窩

かつて、山で生活し自分たちの独自の文化と社会を形成していたサンカが存在したのは確かな事だが、昭和40年代にとなると、「いる」「いない」で意見が別れている。『サンカと説教強盗』を書いた礫川全次は、トケコミしきって、消滅したという説だ。現代日本では山に行ってもセブリをしているサンカはいない。小説や物語の中でのみ、彼らに会う事が出来るというところであろう。

 しかし、その一方で、サンカの独自の結束を生かして金を集め、そのサンカ資金でエリートを育て上げ、サンカ資金の運用で裏側から中枢を動かしているという説もある。三角寛の『サンカ社会の研究』の第4章15は秘密結社という見出しでシノガラを紹介している。セブリから離れてトケコミをすると三代限りでサンカから絶縁する。しかし、形の上ではトケコミだが、絶縁しないで秘密のつながりを持ち続けるのがシノガラなのだと言う。セブリがなくなった後、サンカはシノガラとして存続しているのかもしれない。元々、明治以降、戸籍を取らせるため、また犯罪捜査のためとして警察から過酷な手入れをされるなど差別にさらされたサンカが自衛のため、法律家、政治家を育て対抗しようとした事からはじまるサンカ基金がシノガラと結びつき、秘密裏に育てた人材を、サンカの代表として権力の中枢に送り込んでいるのだろうか。民俗学者の赤松啓介は「サンカも殆んど姿を消してしまい、常民のなかへトケコミしたようだが、地下の組織は生きているだろう」「こうした人たちの正体を調べようなどと、バカな野心は起こさないのがよい。ウラの世界にはウラのオキテがある」と述べた上に「絶対に死体が上がらない海もあるし、あまり人の行かぬ林の中に白骨が横になり、木の枝に縄がゆれているという風景もある」とまで言っている。(民俗境界論序説)

 『マージナル』1号では西垣内堅佑弁護士がサンカと土建・建築業界はつながりが深いと言われることをふまえながら、田中角栄元首相と政商小佐野賢治の協力関係がサンカの秘密組織シノガラと重なると指摘している。矢切止夫も「原日本人の系譜をひくサンカにはシノガラという相互扶助組織があり、その組織の元締たるオーモト(アーモト)様はスイスに存在していた」「アメリカ政府はオーモト様と連携し戦後の日本の政体について、天皇制を廃止し、日系アメリカ人を母体としたオーモト様指揮下のサンカ政権を作ることを計画していた。しかし、占領後、天皇の力が強いことを知ったフリーメーソン(33階位)のマッカーサーは、サンカ政権の約束を反古にし、天皇制を利用してフリーメーソンの影響下にある政権を作り出してしまった」という説を紹介している。また、田中角栄が拘置所から出た時に「ユダヤにやられた」と口にしたという話もあったという。現代日本の裏側でサンカが活躍しているというのだ。

これは、五木寛之の作品『風の王国』ともつながる説だ。サンカは銀行も持っていて、これがサンカ基金を運用しているという噂もある。