甲州街道はかつてサンカ街道とも呼ばれたという。街道沿いのあるところに、サンカの集落がある。
この集落にサンカが定住したのは戦時中の事で、漂泊の生活で戸籍を持たないサンカを強制定住させて
戸籍に入れ、徴兵した。定住の場所は、ただ無作為に選んだのではなく、
サンカに縁のある場所が選ばれた。
つづく
甲州街道はかつてサンカ街道とも呼ばれたという。街道沿いのあるところに、サンカの集落がある。
この集落にサンカが定住したのは戦時中の事で、漂泊の生活で戸籍を持たないサンカを強制定住させて
戸籍に入れ、徴兵した。定住の場所は、ただ無作為に選んだのではなく、
サンカに縁のある場所が選ばれた。
つづく
山窩料理
戦時下に。、東京都下にサンカ料理を出す割烹旅館があった。今はサンカ料理をやっていないが、
それに近い川魚料理をだす。米を食わないサンカらしく、米飯がなく、ヨモギやソバがメインの料理で、
ある。この店、戦時中、陸軍御用達(ごようたし)の店で一般人は入れない店だった。
東条英樹が入りびたり、夜の大本営とまで言われた。サンカ料理と東条英樹、陸軍とサンカが実は、
つながっていたのであろうか。
つづく
山窩と犯罪
大正15年7月30日、池袋の黒川健三方に職人風の覆面男が忍び込み、20円を強奪した。
4年にわたって東京を震撼させた説教強盗の登場である。忍び込んだ家で、縛り上げた家人に戸締まり
しろとか、防犯上の説教をしたことから、当時朝日新聞の記者だった三角寛が「説教強盗」と名づけた。
説教強盗は犯行を重ね、その数は昭和4年には盗みと強姦をあわせて65件に登った。
その鮮やかな手口にキリキリ舞いさせられた捜査陣から「犯人はサンカ」ではないのかと声があがった。
これを聞きつけた三角寛はサンカに興味を持ち、サンカの研究を始める。昭和4年2月24日、説教強盗
妻木松吉は西巣鴨向原の自宅で逮捕された。捕まる時「おさわがせしてすみません」と言った妻木は
サンカではなかった。昔は、事件があると警察はすぐにサンカではないかと疑った。
下谷万年町にサンカが多くいて、潜入している刑事までいたのである。
サンカは、明治以降、近代に入ってからも戸籍を持たずに山で漂泊の生活を続けていた。
そのため、明治以降、近代に入ってからは警察が、まつわる人々であるサンカを怪しみ、
サンカと犯罪を結びつけ、何かあるとすぐに「犯人はサンカ」ではないかと憶測した。現在もそれは、
続いている。グリコ森永事件の当時、一部で「かい人21面相」=サンカ説がささやかれたのである。
その噂(うわさ)の真偽は確かめようもない。また、何から何までサンカでは困ってしまう。しかし、
噂(うわさ)が出る事自体が、サンカの魅力が今も輝いている証拠なのは確実だ。
つづく
山窩と古史古伝
サンカには、独特の文字と神話伝承がある。『日本書紀』『古事記』に書かれた以外の歴史を伝える。
幾つかの古文書を一般に古史古伝というが、その中の、江戸時代に大分で発見された『上記』
(ウテツフミ)はサンカ文字と同じ文字で書かれている。『上記』は、本当の古代史なのだろうか。また、
日本神話である『日本書紀』も『古事記』も、サンカ言葉で読むとまったく違ったものになるという。
サンカの道具であり武器ででもあるウメガイという両刃のサンカ刀があるが、このウメガイこそが
建速須佐之男命(スサノオノミコオ)がヤマタノオロチを退治した刀だというのだ。
つづく
山窩と裏日本史
日本の信仰はどれも、深く山岳信仰と関わりあっている。山岳信仰と密教は密接な関係にある。
真言宗の開祖空海も、中国に渡る前に山で修業している。後に修験道は真言宗、天台宗の両密教に、
所属するが、表向きは修験が両密に所属しているものの裏では関係は逆だという。
サンカと修験の深いつながりは容易に想定できる。サンカと修験は同じものでないが、サンカとの
関係が悪ければ、修験は修業どころか、山にいる事すらできなかったであろう。そして、日本仏教は、
修験を通してサンカとつながっていた。明治以降、仏教と神道は分離されてしまったが、江戸時代まで
仏教と神道はそれほど別のものではなかった。いや、山を介して深く関連しあっていた。
竹はサンカにとって重要なものだ。お伽噺(とぎばなし)の竹取物語はサンカの物語かもしれない。
竹取物語のかぐや姫が男に冷たいのは、サンカの女が朝廷の男に敵意を持っていたためだろうか。
サンカは忍者の源流だったとも言われる。身が軽く、山の自然の過酷な環境の中で生まれ、育ち、
そこで生きる知識と技能がある。また、独自の文字や連絡方法を持ち、その情報網は日本全国を、
覆っていた。サンカ独自の山の道も、他にはない交通網だった。そういう特殊技能と、結束、集団性は、
そのまま強力な忍者集団になれる。戦国時代、サンカは忍者として諸国の大名に雇われ、情報戦を
担っていたという。
情報を握ることで、逆に諸大名を操作していたとも言う。織田信長は、サンカを裏切ったため、
本能寺で明智光秀に殺されるよう、忍者=サンカが手配したというのだ。また、織田信長、豊臣秀吉、
徳川家康などは、サンカ出身だという説もある。確かめようはないが、それが間違っていたとしても、
サンカと日本史の関係を考える場合、ある種のリアリティーは伝えている。
サンカは明治初期から次第に被差別や都市部のスラム街に溶け込んでいったと考えられる。
つづく
現代に於いては、一部不適切な、表現及び名称が御座いますが、サンカの真実を伝える
為に、使用しておりますが、予めご了承ください。
日本の信仰はどれも、深く山岳信仰と関わりあっている。山岳信仰と密教は密接な関係にある。
真言宗の開祖空海も、中国に渡る前に山で修業している。後に修験道は真言宗、天台宗の両密教に、
所属するが、表向きは修験が両密に所属しているものの裏では関係は逆だという。
サンカと修験の深いつながりは容易に想定できる。サンカと修験は同じものでないが、
サンカとの関係が悪ければ、修験は修業どころか、山にいる事すらできなかったであろう。そして、
日本仏教は、修験を通してサンカとつながっていた。明治以降、仏教と神道は分離されてしまったが、
江戸時代まで仏教と神道はそれほど別のものではなかった。いや、山を介して深く関連しあっていた。
竹はサンカにとって重要なものだ。お伽噺(とぎばなし)の竹取物語はサンカの物語かもしれない。
竹取物語のかぐや姫が男に冷たいのは、サンカの女が朝廷の男に敵意を持っていたためだろうか。
サンカは忍者の源流だったとも言われる。身が軽く、山の自然の過酷な環境の中で生まれ、育ち、
そこで生きる知識と技能がある。また、独自の文字や連絡方法を持ち、その情報網は日本全国を、
覆っていた。サンカ独自の山の道も、他にはない交通網だった。そういう特殊技能と、結束、集団性は、
そのまま強力な忍者集団になれる。戦国時代、サンカは忍者として諸国の大名に雇われ、
情報戦を担っていたという。
情報を握ることで、逆に諸大名を操作していたとも言う。織田信長は、サンカを裏切ったため、
本能寺で明智光秀に殺されるよう、忍者=サンカが手配したというのだ。また、織田信長、豊臣秀吉、
徳川家康などは、サンカ出身だという説もある。確かめようはないが、それが間違っていたとしても、
サンカと日本史の関係を考える場合、ある種のリアリティーは伝えている。
サンカは明治初期から次第に被差別や都市部のスラム街に溶け込んでいったと考えられる。
つづく
670年の「庚午(こうご)年籍」に始まる戸籍は、国家統治の基礎であった。しかし、明治に入っても
戸籍への編入を拒絶し、国民の三大義務である徴兵、納税、義務教育を無視してきたのがサンカで、
あった。日清戦争後にも20数万人、第2次世界大戦後の昭和24年にも、約1万4000人の無国籍サンカ
がいた。その当時サンカ以外の流浪人を合わせると80数万人の戸籍を持たない人達がいたという。
昭和27年朝鮮戦争を契機に国家再編成を実現する目的で施行された「住民登録令」によって、
この列島に住む人々は全て、居住地を決め、その住所を申請すると同時に、米穀通帳、国民年金、
健康保険、選挙人名簿などを一括登録する事を義務化した。後に「住民基本台帳法」として、
完成するこの政令によってサンカの歴史は幕を下ろすことになる。
つづく
言葉の幾つかは集団固有のものを用い、それを兵庫県地方ではサンショコトバといっていた。
サンショとは中世の(さんじよ)に当たると推定されている。サンカ同士は、伝令やサンカ文字に
よる手紙で常に連絡を取り合っていた。
生業
サンカには大きく3つの職種がある。ミツクリは箕(み)作りで、竹細工系の仕事。フキタカは笛作り、
琴作り、茶筅(ちゃせん)作りなど、楽器や芸事の道具製作で他にも籠(かご)、簑(みの)、笠(かさ)、
下駄(げた)などの細工物を作る。里におりて食料その他と交換した
エラギは猿舞い、獅子舞、猿楽、白拍子、くぐつ、などの遊芸である。彼らは、漂泊の旅をする遊芸の
民だった。歌舞伎(かぶき)は出雲の阿国という女がはじめたと言われている。
サンカの伝承=コトツによれば、この阿国がサンカだったというのである。このようにサンカは、芸能や
宗教などにたずさわった者と根をひとつにするようだ。
この他にイツモリ=五守という分類もあり、山番などの労務関係の仕事がある。ヤシナド(ヤシナ)と、
いう分類には、竿(さお)屋、ふいご屋(いかけ屋)、研ぎ屋(するど・刃物砥ぎ)、トベナイ(呪・占い師)
が入る。蝮捕はサンカの誰がやってもいいとされる仕事で、取った蝮は生きたまま蛇屋に売る他、
調味材料、副食などの食用にした他、保健剤、外傷剤としても使われたという。川漁にたずさわる集団も
多かった。山中の川のそばでユサバリをしてセブリ、川魚や山菜を取りながら、転々と移動した。
非農業系の仕事のかなりの部分がサンカなのだ。
ウメガイとテンジンが代表的なサンカの道具で、サンカの証明ともなる重要なものだ。ウメガイは、
両刃の小刀で、サンカの象徴的な仕事である箕(み)作りで竹を細工するのに使われる、サンカに、
とっては最も大切な道具である。また、時には護身用に使用される。テンジン=天人はウメガイとともに
サンカを証明するもので、ウメガイよりも大切にされる。マガクモ=ニセサンカがウメガイを持っている事
は許されても、天人を持つ事は絶対にゆるされない。
つづく
山窩は、日本列島の脊梁(せきりょう)(せきりょう)山脈や高地を移動し『山』を生活の拠点としていた。
北は青森の下北半島から南は鹿児島の大隈半島まで全国的に分布するとも、東北地方以北には、
いないともいわれる。住居は山では洞窟に住み、移動のときにはユサバリとよばれるテントを張って
家族単位に生活した。また、ユサバリで暮らすことをセブリと『瀬振り』(セブリ)といった。
これこそがサンカの特徴である。セブリこそがサンカなのである。昼間は箕(み)作りをしたり、
笛を作ったりする。時には蝮(まむし)も捕る。サンカは働き者で、身奇麗だという。煮炊きは、
テンジン=天人という自在鉤(かぎ)で吊(つる)したナベで行う。風呂(ふろ)は焼き湯と言って、
穴を掘った内側にまず天幕を張って水がもれないようにし、水を入れた後に、たき火で焼いた石を入れる。
こうして湯を沸かし、入浴する。冬は南の暖かいところ、夏は北の涼しいところに居を構えたという。
男は天幕や道具を、女は赤ん坊やナベカマを背負い、山のサンカ道を抜けて次のセブリに行く。
彼らは米を主食とせず、さらに、非農耕・非定住・非服属の等の特徴を持つことから
「日本のジプシー」とも呼ばれる。サンカは、このような生活をサンカ言葉でハタムラという掟(おきて)で
守ってきた。サンカ言葉では、平地に降りて暮らすことをトケコミ、イツキという。戦後は、
トケコミしたイツキのサンカが、サンカの主流となったという。
つづく
サンカの種族的系統については、縄文人の末裔説、渡来人説や落人(おちゅうど)説、
中世の傀儡(くぐつ)の後裔説などがあり一定していない。
縄文人の末裔説によれば、彼らは大和朝廷に征服された先住民族であり、原日本人である。
この日本列島に、朝鮮半島や中国から水田稲作と高い土木技術をもった、騎馬と鉄の武器で、
武装した俗にいう弥生人がやってきた。これらの人々やその後身である大和朝廷は列島の平地部分を
占拠していった。原日本人は平地を追われて山に立てこもった。侵略者たちは日本列島の主人面を、
はじめ、征服され、滅ぼされた原日本人の末裔であるサンカは、大和朝廷成立以前からの生活を、
守り暮らした。平地定着民となる事を拒絶し、山と平野の間を風のように流動し先住民としての矜持と
自立を守ってきた。これはアメリカ大陸に上陸したイベリア人がインディオを駆逐し、アメリカ人たちが
「インディアンは劣等な存在、自然奴隷である」として、インディアンから土地を剥奪したのと同じ事である。
柳田国男は<妖怪談義>のなかで次のように述べている。
『これらの深山には神武東征の以前から住んでいた蛮民が、我々のために排斥されられ・・・
その大部分は死に絶え、乃至は平地に下ってわれわれの文明に同化したでもあろうか
、もともと敵である。少なくもその一部分は我慢をして深山のそこに踏みとどまり野獣に近い生活を、
続けて、今日までも生存してきたであろうと想像するのは、強(あなが)ち不自然なる空想でも無かろう』
又、 沖浦和光は、有史以前からの「山人」に連なるものではないかとする柳田国男のサンカ論を
否定し、サンカは比較的新しく江戸期に度重なる飢饉(ききん)で山野に逃れた人々を祖とするという
「近世末期発生説」を提起している。サンカに関する初出史料は安芸国(広島県)の庄屋文書
(1855年)とみられる。三角寛はサンカ発生の地として「雲伯石の三国」(島根・鳥取両県)を
示唆している。
つづく