アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾八年 伊三郎殺害現場高岡村補足

2016年09月13日 | 近世の歴史の裏側

高岡村(現伊勢崎市境平塚)

 新田郡に属し 北は同郡境村 西は佐位郡中島村で

集落は小高い段丘上に有った。永禄八年(一五六五年)

旗本酒井領で 近世を通して高七石 近世後期の御改革組合村

高帳では家数二七 集落はしだいに西方の字新屋敷の地に拡大

明治三年(一八七〇年)の村絵図によると本村の本郷に二八軒

新屋敷に一四軒 村内に水田は無く、他村に出作田畑をもつ家が

多かった。

明治九年所接する八木沼村と合併して米岡村となった。

「米」には八木沼の八木を一字として「岡」は高岡村の岡を採った

米岡村の明治十年頃の家数百六軒うち(社二寺三)人数五七二人

牡馬五 船五 荷車一七 生業は農業と桑業であった。 

八木沼村(現伊勢崎市境平塚)

 新田郡に属する 北は同郡高岡村 西は佐位郡中島村 

平坦地 昭和初期まで八木沼と称する沼が村内の北部に

あつた。新田庄内八木沼郷の遠称地 寛文郷帳では高五

二O石 畑方のみ 幕府領 近世後期の御改革組合村高

帳では旗本松平領 家数五十 畑六十町八反ほどがあった。

明治九年高岡村と合併して、米岡村となった。 

 

 


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の十二

2016年09月10日 | 近世の歴史の裏側

仙岳は、以下の様に述べた。

「今年の不作は全く是れまでは、見ざる処で農民一同に取っては御気の毒なれども

減納の儀は迚も御聞届けに成らないと云う訳は皆様も御承知の通りでございますれば 今年の事は別段致しも無い事故へ 御年貢を拝借すること、なし 早速に拝借の願書を差出す手続に為れては

如何か 若し左様のことに相成るならば拙僧およぶ乍が御尽力致さんと申され

又役人に対しても今年の分は是非とも拝借せらるる様 御採り為し願はしう存じますと堂々と述べ立てた」

                                            (後略)

                                      続く


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の十一

2016年09月09日 | 近世の歴史の裏側

豪傑肌、変り者に「他人の企図し難い美徳に」正体の知れぬ僧で、随分面白き経歴にの持ち主で、

藩主の厚い信頼を得て 藩政万端に嘴を入れるようになった。

姉徳に劣らぬやり手である。 高崎藩主が後盾であるから影響力は姉徳以上である。

十月十七日の四千人か参加した直訴の集団示威のあと 大惣代等関係者は解散したと見せかけて 

栗崎村「高崎市栗崎町」地蔵寺に集まって協議を重ねていた、これを知った藩の大目付以下役人は

急ぎ駆けつける 仙岳はこれに同行した。

役人は「検見を実施し不作が判れば必ず免除することを約束するから 穏かに百姓が帰村する

よう村々を纏めよ」惣代らを説得するが両者の溝は埋まるどころか気まずい状態となった 

沈黙か続く中に仙岳か現れて弁舌を振るう。

                                            続く

 


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の壱拾

2016年09月08日 | 近世の歴史の裏側

仙岳は 今までは藩庫を支える穀倉の従順な城付の君海が一変 不公平を是正しようとする積年の忿怒に同情した 

 一方 下仁田戦争から朝幕間にあって右往左往し 莫大な支出に苦しむ高崎藩の懐事情も、理解出来た。 

 天狗党騒ぎから藩政に干与して下仁田戦争では死傷者の収容と供養に献身して

 藩主の信任を得ていた仙岳は 高崎藩存亡にも係る五万石騒動の危機に両者の調停に乗り出す、五万石騒動の全貌を明らかにしてくれるのは細野格城が明治四十四年(1911)に書き遺した来た 「五万石騒動」である。

細野は、当時十六歳動員を駆けられ加わった その体験を土台に調査を積み重ねて

四十二年後にまとめたもので 騒動の内実の真相を伝えてくれる。

細野は調停 斡旋に奔走した田村仙岳に注目して 次のように人物を紹介している 

一種性格の違った淡白な豪雄肌の人が在った 其人格に就ては中々多種多様で

色々な諸議も、多かった変り者で他人の企図し難い美徳をも持って居ると云う正体の知れぬ僧で

随分面白き経歴を持って居た。(後略)

                                                   続く


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の九

2016年09月07日 | 近世の歴史の裏側

高崎落城付五万石騒動


 下仁田戦争から四年後、明治元年(一八六八)徳川幕府は倒れる。

 並み居る上州の譜代藩は何らの動揺もなく新政府に恭順した。

 尊王攘夷を掲げた水戸浪士と下仁田で戦った高崎藩とて例外ではなかった。 

 明治新政府は正月付で 東山道方面を陳腐する総督の執事名で三つの制札を建てさせ

 朝廷による新政を布告した。 

 その中で将軍徳川慶喜を追討し、これからは徳川の支配で塗炭に苦しんだ人民の

訴えを受け付け、万民に公平な政治を行う と天皇の徳治を告知した 

 また総督府は猛威をふるう世直し一揆を意識し 三月八日「上野国村々百姓共へ」と宛てた

布告を発し 百姓一揆への理解を示すかのようなかたちを採った。

 一揆の要因は徳川の苛政にあり新政の目的は万民塗炭の苦しみを除くにあり 

一揆の代表者から訴えがあれば 総督府は善処する、という甘言が盛り込まれていた。 

 明治二年十月 高崎藩城付五万石六十一か村は、金納を認めず

割高な米納年貢を押し付け続ける藩の旧弊な徴税方式の改定を訴えて行動を起こす。

東・西・上・中・下の五郷の村々は 惣代三名を選んで惣百姓を組織し、高崎城下に押し寄せた。

                                                続く 


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の八

2016年09月06日 | 近世の歴史の裏側

水戸浪士の戦いに武運長久の守護札を配ったり 軍需物資の搬送に協力し、

高崎藩を支援して来た仙岳にとって 下仁田での敗戦は予想しなかつたことであつたが、

まずは戦場に行って、

自らこの目で確かめ 戦死者があれば 勅願寺の僧として供養しなければならなかった。

十九日 仙岳らは下仁田に駆けつける。敗戦の高崎藩士は 武田耕雲斎等の首実検を受けた後 

専修院に埋められた者八名の他は、討死場所に放置されたままであつた。

首の付いた死者は稀でほとんど首を落とされて、屍を喰う犬もあり 何よりも戦死者を収容することが急がれた 

 仙岳は遺族 親類縁者を引き連れ 戦場を駆け廻って 死者への読経に余念がなかった。 

専修院に埋められた首は掘り出され 落とされた首は元に修復して駕龍に担がれ悲しい帰宅となった 

 藩主輝聾からは戦死した藩士に香花料と、肴料、幕府からは金十両が下賜された、

 また藩は改めて天台宗華応山大染寺で大法会を設けて戦死者を弔った 

 下仁田の戦場にまで直接足を運び 誦経の供養に専念した仙岳は 自らが住職を務める清水寺境

内に一宇の堂を建て 戦死者の肖像を刻んで 永世に供養することを発願する 

 仙岳はその経緯を「義勇士各霊過去帳」に書き遺した 坂上田村麻呂以来の武運長久

 勝利の祈念修行の由緒を述べ 水戸浪士追討の高崎藩出兵とその関わりに触れ「大王君始め奉り御家臣方ならびに歩役之者迄 御守護二千五百枚」を差し上げたと記している。

そして元治元年十一月十六日下仁田郷で戦死した高崎義勇士三十六人の菩提を弔うため 法名 実名 年齢 菩提寺名を銘記し、発願文の末尾に「現住仙岳謹言」と記している。

 この堂は田村堂と、呼ぱれ 既に百五十年余の歳月に耐えて現存するが、 そこには三十六体の戦闘

姿の人形が納められている。

 上士から下士まで藩士三十一名 医師 町人等徴発された者五名である。

仙岳の本意は 君命を奉じて戦場に討死するは武士の本分で 誇るに足らず むしろ たまたま

巻き込まれた戦いに徴発され 命を落とした者の肖像を後世に残す事にあつたと考え有れる。

仙岳はただ 高崎藩におもねるために戦死者の供養に邁進したわけではない 幕末維新の激動に

倒れた身分の低い足軽 小者 百姓町人身分の戦死者に対して 深く追悼する気持があつたので

ある、仙岳も姉徳に似て 弱きを、扶ける仁侠の風格を備えた傑僧であつたと言え様 

下仁田戦争の敗戦処理に苦しんだ高崎藩は 御維新の荒波の中、またまた大変な内政の難局に

直面するl五万石騒動と言われるいわば遅れてやって来た百姓一揆である。

田村仙岳の出番がまたやって来たのである。

                              続く


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の七

2016年08月31日 | 近世の歴史の裏側

仙岳 下仁田戦争戦死者を祀る 其の一

 水戸浪士が去った下仁田戦場の惨状は言語に絶するものであった。

 死屍累冷 至るところに白兵戦の凄まじさを物語る太刀や槍、武具が散乱していて、

 重傷を負い息絶えた者や負傷した者か取り残され、浪士により処新された藩士の首や遺体  は、放置されたままであり 敗北の悲劇をまざまざと見せつけていた 

下仁田戦場に家族関係者ともども真つ先に駆け付けて、戦死者の遺体を探し出し

弔ったのは田村伯岳である。

                                       つづく


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の六

2016年08月30日 | 近世の歴史の裏側

下仁田戦争の敗北

 筑波山に挙兵した水戸浪士は 幕府追討軍に反撃しながら 大義である尊王攘夷を 京都にあっ 禁裏守衛総督を務める一橋(徳川)慶喜(水戸藩主斉昭の長子)に直訴し朝廷に言上しよう、と決意する                    

 十一月一日 武田耕雲斎を総大将に 田丸稲之右衛門 山国兵部(喜八啓)藤田小四郎の幹部

に率いられた水戸浪士は 三隊編制で京都へ向けて進軍を開始した。 

世に言う 水戸天狗党である。

高崎藩は北関東有数の譜代大名でありながら、水戸浪士とは下妻で戦闘して敗走し「右京様は卑怯様」にと嘲笑されていた 高崎藩では 天狗党との闘いを回避した諸藩と違い 雪辱を期して一戦交えるべきとの藩論に傾いていた。藩は十一月十一日 急濾六百人の藩士を四隊に編制し三隊をもって迎撃することに決した 

十一月十五日夕刻 東山道を避けて下仁田に水戸浪士の先遣隊二百人が宿陣した。

 翌十六日払暁から戦いは始まった。戦さ慣れと火勢に優れた水戸浪士に包囲され 高崎藩士は次々と討死 負傷し 敗北する。

                                  つづく


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の五

2016年08月23日 | 近世の歴史の裏側

水戸浪士反乱と高崎藩の出兵

元治元年(1864)二月二十七日 内紛に揺れる水戸藩では田丸稲之衛門を総帥に、

藤田小四郎ら脱藩百数十人の浪士が筑波山中腹の護持院に挙兵した 

六月十一日 幕府は高崎藩に水戸浪士を追討するよう出兵を命じた 

藩は止もなく六月二十三日、八百七十人の一番隊 二十五日に二百十人の二番隊が

野州(栃木県)に向かって出撃した。

藩主松平輝照を迎えて高崎城中で行われた部隊編制と結団式に高崎藩主祈願寺の

清水寺現職田村仙岳は「武運長久 勝利祈願」の守護札を用意 持参して出陣藩士

一人一人に配布した。 

ところが七月八日下野国下妻田町雲充寺に宿営していた高崎藩兵は、

藤田小四郎指揮下の浪士の急襲を受けて あわてふためき武器、弾薬等装備の荷物を

置き去りにしたまま遁走した。

この不様な敗走ぶりを見た人々は 「右京様(高崎藩主)は卑怯者」」と皮肉った。 

下妻雲充寺に残して来た武器、弾薬は高崎藩にとって敵の手にでも渡ったら

恥の上塗りである。

これを何とか取り返し 高崎まで持ち帰りたいと考えた。

武装した藩士では水戸浪士に見破られるということで、名乗りを上げたのが清水寺住職

田村仙岳と城下書肆店主沢本某である。

人足を引き連れて、非戦闘員を称して野州下妻まで行き、武器i弾薬その他を収容し

高崎まで運搬した。

高崎藩内における伯岳の覚えはますます高くなり 藩主輝馨の厚い信任を得る事と為った

のである。

                   つづく


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の四

2016年08月19日 | 近世の歴史の裏側

通常は 他家の女婿になって百姓になるか いっそ蚕で潤う商家の奉公人になるかであるが、

伯岳は、いずれの途も採らなかった 出家して僧侶になる途を選んだのであった 

いつどの寺で得度し、どこで修行し、一人前の僧侶となったのか 仙岳の修行時代は全く

不明である 

群馬郡福島村(高崎市)真言宗豊山派金剛寺住職より高崎華蔵山弘誓院清水寺への

転住の記事によって 僧仙岳が現れて来るのは 嘉永三年(一八五〇)十二月三十日である。

高崎城下はじめ周辺村々の人々から観音山と親しまれ信仰を集めた名刹清水寺の住職となった。

その九日前 姉徳が精魂傾けた国定忠治が大戸で傑刑に処せられていたのである。 

忠治の死出の行列は 高崎城下を華々しく通過しており仙岳は人知れず姉徳との因縁を思いっつ

観衆の中から手を合わせていたであろう 

お上の御定法を破ってまで忠治に賭ける姉を戒めるのでなく

むしろ支援するところに仙岳の出家

らしからぬ豪胆さがある。この時まだ二十六歳の青年僧であった こんな若僧に高崎の名刹清水

寺か任されたのには 清水寺自体が寺格か落ちるほど衰微していたか? あるいは荒廃した由緒ある

寺を やる気のある青年僧に委ね復興を期待したかである いずれにせよ 伯岳には通常の出家人には

ない手腕、力量を感じさせるものがあつたのであろうか、徳に共通するものである 

仙岳の特異な力量は 幕末の変革に直面して右往左往する大檀越高崎藩の救済に向けて発揮される

しばらくは仙岳の活躍とその背景に目を向けてみよう。

                           続く