梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)の再読に際して、
今回は、藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」を並行して
読んでおりました。その楽しみは、寝ている文字が起き上る。
横に寝ていた文字が、ムクッと起きあがる読書となりました。
うん。こうすればいいんだ。
「知的生産の技術」を読む、コツがつかめてきました。
こうなれば、またしても違う人の本を読みはじめれば、
もっと裾野の広い「知的生産の技術」を味わえるかも。
そういえば、「知的生産の技術」のまえがきは、
こうはじまっておりました。
「・・この本は、著者ひとりでできあがったものではない。
たくさんの友人たちの、共同作業の結果のようなものである。
わたしは、わかいときから友だち運にめぐまれていたと、
自分ではおもっている。・・・・・
先生よりもむしろ、それらの友人たちから、
さまざまな知恵を、どっさりまなびとった。
・・・研究のすすめかたの、ちょっとしたコツみたいなものが、
かえってほんとうの役にたったのである。
そういうことは、本にはかいてないものだった。
・・・ひとりが、なにかあたらしい技術を案出すると、
それがほかの仲間にもすぐつたわるようなしくみが、
いつのまにかできあがって、いまにつづいている。
・・・これらの友人たちのあいだでの共有財産は、
質的にも量的にも、かなりのものになっている。」
はい。こういう視点でこの新書をパラパラめくっていると、
あらためて鮮やかな印象で浮かびあがる箇所がありました。
「わたしは、中学生のころから、山へいっていた。
登山家のあいだでは、『記録をとる』という習慣が、
むかしからあるようだ。
行程と所要時間、できごとなど、行動の記録を、
こくめいに手帳にかきこんでゆくのである。
ルックサックをおろして、ひとやすみ、というようなときに、
わずかな時間を利用してかくのだが、つかれているときには、
これはなかなかつらいことである。
わたしは、山岳部の生活で、そういう『しつけ』を身につけた。
後年、探検や調査の仕事をするようになってから、
その訓練が役にたった。・・・」(p171)
ここに、『中学生のころから、山へいっていた』とあります。
そうだ、『川喜田二郎君のこと』というのが
梅棹忠夫著作集第16巻(p567~569)にちょっと出てきます。
川喜田二郎氏の本の裏表紙に梅棹氏が書いた短文なのですが、
著作集のご自身の、その解説では、こうはじめておりました。
『川喜田二郎とは、わたしは中学校入学以来の同級生であり、
生涯をとおしての親友である。』(p568)
もどって、『知的生産の技術』の第2章「ノートからカードへ」に
も川喜田氏が登場します。
「当時大阪市立大学の地理学教室にいた川喜田二郎君などは、
国内各地の地理学的共同調査において、カードをつかうことを
こころみて、たいへん成果をあげた。かれはその後、ヒマラヤ
の調査にでかけて、野外調査については豊富な経験をつんだ。
・・・川喜田君の経験にもとづいた
『野外調査法への序説――ネパールの経験から――』という
論文を出版した。・・・そのなかに、すでに野外調査における
カードの使用について、基本的な問題点がしめされている。」(p42)
梅棹忠夫著作集第11巻(p491~498)には
その「『野外調査法への序説』について」がありました。
梅棹氏ご自身の解説から引用。
「・・当時、川喜田氏は大阪市立大学文学部地理学教室の助教授であり、
わたしは理工学部生物学教室の助教授であった。
1953年11月4日に・・・
川喜田氏がネパールの経験にもとづいて発表をおこなった。
この発表はガリ版ずりにして会員に配付された。ひきつづいて、
フィールド・ワークの技術に関する研究をつぎつぎに刊行する
という意気ごみであったので、この川喜田氏の発表は・・
印刷された。わたしはそれに『刊行のことば』を執筆した。
・・・・この『野外調査法への序説』は、興味ある内容のもので、
現在でもその復刻版をつくりたくなるくらいである。・・・・」
(~p493)
『知的生産の技術』の最終の第11章は「文章」でした。
そこからも、すこし引用。
「じつは、この方法は、かなりまえから、わたしたちの仲間
のあいだで、すこしずつ開発がすすんでいたものであった。
ところがそれを、理論においても実技においても大発展させて、
たいへん洗練された技法にまでもっていったのが、
KJ法の創始者として有名な、東京工大教授の川喜多二郎君であった。
・・・KJ法については、かれの著書『発想法』を
読まれることをおすすめする。」(p206)
はい。2冊。ここまでで読んでみたい、
川喜田二郎氏の著作がしぼられました。
これで、『知的生産の技術』の文面が、
立上り、つぎに歩きはじめますように。
2021年8月真夏の夢となりますように。