苅谷夏子著「大村はま 優劣のかなたに」(ちくま学芸文庫)。
ときどき、本を読みおわってだいぶたって、
海底からプクプクと泡が浮んでくるように、
本の中から言葉が、浮んでくることがある。
そんな感じで思い浮かんだ箇所があります。
㉘「読みたい本」(p125~128)でした。
はじまりに、大村はまさんの言葉が引用されています。
それは、『国語教室おりおりの話』からの引用でした。
「・・『読んだ本はなかなかふえない。読みたい本はどんどんふえる。』
これは、皆さんの先輩の、石川台中学校の卒業生の人たち、
その人たちが残したことばです。 」
このあと、苅谷夏子さんは、大村はまの姿勢を指摘してゆきます。
「・・そんな中で、『読みたい本』を記入していくページは、
『読んだ本』と同等か、それ以上のものとして大事にされていた。
・・・・・ 」
こうして、苅谷さんの言葉がプクプクと浮んでくるのでした。
「公立中学校という、ごくごく普通の生徒の集まる場で、
読書生活の指導が、こういう種類の豊かさを目指すものであったことは、
現実的であるし、あたたかなことだ。
一冊を最後までちゃんと読まない限り、
読書とは認めないということであったら、
本はずいぶん遠いものになる。
かりそめに読みたいと思った、興味をひかれた、
題名だけでも面白く感じた、『いつかは』と思った、
そんな本を、自分の読書生活の範囲内のこととして記録する。
そういうことまで含めた読書生活ならば、
大人になって、どんな暮らしをするようになっても
持続できるのではないか。・・・・ 」( p127 )
『これでいいのだ』と後ろから大村はまさんが肩を叩いてくれてるような。
ということで、読みたい本を書きつらねるブログがあっていいのだと思う。
さっそく、新刊で読みたい本が思い浮かぶ。
磯田道史著「日本史を暴く」( 中公新書・2022年11月 )。
私は、以前に読売新聞を購読していた期間がありました。
そうそう何紙も購読できないので、読売新聞はとるのをやめたのですが、
読売新聞に、磯田道史の「古今をちこち」という楽しい連載がありました。
月一回の連載だったと思います。ああ、これを読みたいなあと思っていた。
その連載が一冊の新書になっていた。
なんでも、2017年9月~2022年9月までの新聞掲載分が
まとめて、新書の一冊となったようです。
新聞連載では、毎回の挿絵もあり読めると楽しかったなあ。
新書では絵がカットされてはおりますが、こりゃ読みたい。
コメントありがとうございます。
とりあえず。
大村はま国語教室の全集を買ったので、
今は、他にはなるべく触手を伸ばさず、
このまま冬籠の体勢でおります。
ちなみに、私は文芸誌は避けるタイプ。
文芸誌は、敬して遠ざけるタイプです。
お見知りおきください。
「読んだ本はなかなかふえない。読みたい本はどんどんふえる」
「かりそめに読みたいと思った、興味をひかれた、題名だけでも面白く感じた、『いつかは』と思った、
そんな本を、自分の読書生活の範囲内のこととして記録する」
好みのジャンルも人それぞれあるでしょうし、本によっても読みかたが出てきますね。
書評から、あるいはなにか読んでいる途中に、あるいは読み終わってみると、
読んでみたいと思う本が次々とできていきますね。
「読んでみたい」と思う気持ち、なんともわくわく、たまりませんね。
おすそ分けも楽しみにしております。
コメントありがとうございます。
そういえば、と本棚から河合隼雄・長田弘対談
「子どもの本の森へ」(岩波書店・1998年)を
取りだしてくる。その5ページでした。
一読印象深かった箇所です。
長田】 子どもの本というのは
『読まなきゃいけない』本というんじゃ
ないんですね。そうじゃなくて
『読みたい』とずっと心にのこっている本。
子どものときに読まなかった子どもの本が、
記憶のなかにいっぱいのこっている。
だけど、そうやって記憶のなかに
ツンドク(積ん読)だけで読まなかった
子どものほんというのを、
大人が自分のなかにどれだけ持っているかが、
じつはその大人の器量を決めるんじゃないかなあ。
はい。『大人の器量』とは程遠いところにいる
私なんですが、この言葉も気になっておりました。
これ以上、積読本をふやさないように
ふやさないようにしなくちゃいけないのに。