和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

論説室。

2007-01-25 | Weblog
産経新聞2007年1月18日の「産経抄」。
それが印象にのこりました。「矢祭もったいない図書館」を取り上げているのですが、こんな風にはじまっておりました。

「誰しも、自宅の蔵書には一冊ごとに思い出がある。本の扉に『○×蔵書』の朱印を押してご満悦の人がいた。百科事典を買い入れて、寂しい書棚を埋めた人もいる。はやりものがあれば廃りものがある。本が【社会的地位】の座から滑り落ちてすでに久しい。」

ちなみに、私は古本はネット上で購入します。蔵書印がはいっていると結構値段が安く購入できます。読めればいいという主義の私は、すこしでも安く買いたいので、同一の本なら、蔵書印のものを買います。おもしろいもので、蔵書印がある本は、意外とページがきれいな場合が多いように感じます。丁寧に本棚に置かれていたのかもしれないなあ。きれいといえば、北海道の古本屋さんは、安くてもきれい(新しい)本が多いような気がします。ただし北海道のは、代金先送りの場合が多いようにも感じます。私は読む先から、線を引いていくので、どんな本でもよいのでした。
さて、「産経抄」のつづきを引用します。

「公立図書館に行くと、廃棄する本が段ボール箱に放り込まれていた。『ご自由にお持ち帰りください』との張り紙があっても、持っていく人が少ない。用済みの本を古本屋に持参しても、いまは『カネを取られかねない』と同僚が嘆く。」
このあとに「もったいない図書館」が紹介されておりました。
あとは「産経抄」の最後の箇所を引用してみます。

「以前なら、記者は何か知りたいときは人を探し、足りなければ図書館で本を探した。ときに神保町の古本屋街まで足を延ばしたものだ。その古本屋街もシャッターをおろす店が増えているという。わが論説室で矢祭町を褒めそやしたら、岩手にも北上市というユニークな町があるとの声が上がった。作家の井上靖も名誉館長を務めた日本現代詩歌文学館がある。全国から明治以降の詩集を集めている。本の敵、ネットも、まだここまではできまい。」

ここに「わが論説室」とあります。ああ、そうだ。と思い浮かんだのは石井英夫著「コラムばか一代 産経抄の35年」(産経新聞社)のあとがきでした。
そこに論説室の様子が、ちらりと出てくるのでした。

「長い間、産経抄は騒々しい職場で書くのがならわしだった。執筆の場は、騒がしければ騒がしいほど新聞コラムを書く環境にふさわしいとすら考えてきた。新聞社の論説委員室のことだから、もとより明窓浄机など望むべくもない。周りではああでもない、こうでもないと論議が沸騰していることが多い。それを背中で聞きつつ、時に振り向いて『ちょっと、これをどう考えたらいいかね』などと仲間に問いかける。その助言や示唆を参考にコラムを書く日も少なくなかった。そういう喧騒を『子守唄』にした三十五年だった・・・」

ちょうど、今回引用した「産経抄」も、そんな論説室の雰囲気が伝わってくるような内容だなあ、と思ったわけなのです。まして、それが本の話なら、皆さんが一家言を持っておられるでしょから。などとその室内の雰囲気を想像するのでした。それにしても、「シャッターをおろす古本屋」というのが気懸りではあります。

コラムでは、読売新聞の「編集手帳」(朝刊)と「よみうり寸評」(夕刊)が読み比べて楽しめます。ときに同じ題材を取りあげているときなど、読み比べてみると嬉しくなることがあります。
読売のコラムは、どちらも一人で考えを練っておられるという感じをうけ。
そうすると、コラム産経抄の、騒々しさは次元の違う楽しみを味わえます。
それは、時に騒々しさをまとめあげる手腕の味わいなのかもしれないなあ。
そんなことを、論説室という言葉から思ったわけです。

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