和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

澄んでしみ入るような。

2023-02-21 | 詩歌
戦後の、大村はま先生はどうしていたか。

「 昭和22年中学が創設されました時に、
  最初の生みの苦しみを味わった中の一人です 」

    ( p72 大村はま「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )

ちょうど、その頃。大阪では、月刊詩文誌『きりん』の創刊がありました。
「昭和22年の秋、大阪の尾崎書房」が雑誌を出したいと申し出るのでした。
ここはまず、井上靖氏の文を引用。

「・・私(井上靖)は詩人の竹中郁に相談し、
 小学生向きの月刊詩文誌がいいだろうということになって・・・
 創刊号は翌23年2月に出た。・・・   」

この井上氏の文「『きりん』のこと」には、
井上氏が小学生の詩に触れた場面が書かれております。

「 少し大袈裟な言い方をすれば、私はその夜、
  たまたま小学校から送られて来た二人の少女の詩に、
  感心したというより、何もかも初めからやり直さなければ
  ならないといったような思いにさせられていた。・・・・

  その二編の少女の詩の持つ水にでも洗われたような
  埃というものの全くない美しさに参ってしまったのである。
  
  ・・・幼い字で書き記されてあって、大人ではこんな風には
  書けないと思った。余分なことは一語も書かれていず、
  水の中を流れている藻でも見るように、子供の心が澄んで見えている。 」

   ( p64~67 井上靖著「わが一期一会」毎日新聞社・1982年 )


これについては、次に足立巻一氏の文を引用。
『きりん』はいつごろまでつづいていたのか?

「 1971年3月、通巻220号まで出ました。
  途中休んだときもありましたけれど、
  創刊以来23年間もつづいたことになります。

  そのあいだ、竹中先生は毎月たくさんの子どもの詩を読み、
  選び、評を書きつづけました。一度も休んだことがありません。 」

『きりん』の発行とはべつに、1950年から大阪市立児童文化会館で
 毎月一回、子どもたちが詩を持ちよる『子ども詩の会』が開かれ、
 竹中先生はその詩の一編一編を批評し、詩の指導につとめられました。」

この文のなかで、足立さんは、竹中氏の言葉を引用されておりました。

『 30数年にわたって情熱をそそいできた児童文化育成の仕事も、
  ことしの3月をもって終止符を打った。体力の弱ったことが
  その大原因であった。

  2時間以上も立ったままで、子どもたちの注意をそらさぬよう
  に話を進めることは、76歳にもなると辛(つら)いことだった  』

そして1982年3月7日、77歳で竹中郁は亡くなります。
足立さんは、竹中氏のこの言葉も引用しておりました。


『 自分みずからの詩作品を書いてゆけることも
  しあわせの一つにはちがいないが、

  日本のあちこちから集まってくる子どもの声、
  清らかに澄んでしみ入るような詩の数々を毎日読み、  
  かつ選び出していく仕事は、他の何にもまして充実した時間だった 』

「 先生は第八詩集を『そのほか』と題されました。
  子どもの詩を読むことが第一で、自作の詩は
  余分のことだという考えから名づけられたのです。 」

(  以上引用は、竹中郁少年詩集「子ども闘牛士」理論社の
   最後にある、足立巻一の「竹中先生について」からでした   )


うん。これだけでは、まだ曖昧な憶測を許すところがある。
ここは、竹中郁さんの立ち位置を示す言葉を、最後に引用。

それは、竹中郁・採集 「子供は見ている」(東都書房・昭和34年)の
竹中郁の『まえがき』にありました。


「 詩を書くためには、見つめなければならない。
  見つめれば感じることができる。次に考えることができる。  
  見て書く、或は目以外の耳、鼻、皮膚、など五官をつかって書く。

  こういう訓練は、あらゆる文化の分野に通じるものである。
  小さい時の訓練は、或はその子供が造船技師になった場合、
  或は政治家になった場合、必要に応じて発明や創案を生み
  だしてくるだろう。
  そのための『詩』の訓練なのだ。・・と、わたくしはいいたい。

  子供は、或る時期のあいだ、何をみても何をきいても、
  何をさわっても、詩にしてしまう時期がある。
  長い短いは人によってちがうが、とにかく必ずある。
  そして、その時期がすむと、けろりと忘れ去る。・・・・・

  ここに集まった詩の作者で、
  現に上級の学校へいっている者も多いが、
  詩を書く習慣をもちつづけている者は殆どない。

  しかし、他のものを書くとか、創造するとかいう能力においては、
  小さい時に詩を書かなかった人より、はるかに大きい力を示して
  いるふしがある。

  つまり、小さいときに『詩の素』をたべて育ったらば、
  その一生に狂いはないというのが、詩の教育の眼目なのである。
  そこに尊い使命がある。・・・・               」


  

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4 コメント

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Unknown (1948219suisen)
2023-02-21 11:09:29
さすが井上靖先生ですね。子供の詩の素晴らしさを見抜いておられます。一方の竹中郁先生もやはり鋭いですね。50年前、こんな方が近くに住んでいられたとは!この和田浦海岸さんのブログで、過去近くにいられたのに御縁のなかった大先生の謦咳にふれたような気持ちです。
おはようございます。 (和田浦海岸)
2023-02-21 11:36:40
おはようございます。水仙さん。
さっそくのコメントありがとうございます。

安水稔和さんが、
現代詩文庫「竹中郁詩集」(思潮社・1994年)の
さいごに、『詩人さんの声』を書いておりました。

そこに、神戸が出てきておりました。
うん。ここに引用しておきたくなりました。
安水さんの文は

「昭和20年6月5日の神戸空襲で焼き出された
 わたしたち一家は・・・」とはじまっています。

「昭和20年6月5日の空襲で竹中郁は自宅を焼失する。
 竹中郁の家とわたしの家は神戸の同じ須磨区の
 行幸町と衣掛町にあり、松風町村雨町磯馴町を
 はさんで数丁しか離れていなかった・・・

 竹中郁は家産のほとんどを失い敗戦を迎え、
 一時は家族縁者14人もの大家族を養わなけ
 ればならなかった。・・・」

はい。文章の最後の方も引用しておきます。

「 40年前、詩人のたまごであったわたしたち
  ・・仲間は、竹中郁のことを詩人さんと
  呼んでいた。

  神戸で詩人といえば竹中郁。そこで詩人さん。
  今日町で詩人さんに会ったよ。
  詩人さんが元町通りを歩いていたよ。
  詩人さんが電車に乗っていたよ。
  どこででも詩人さんは目立った。

  若い頃からの見事な白髪。
  遠くからでも聞こえる闊達な声。
  竹中郁はずっと詩人さんでありつづけた。
  ・・・・                」

はい。神戸に住んでいた方が、読むほうが、
こんな引用はふさわしいと思っております。
Unknown (1948219suisen)
2023-02-21 13:25:47
ご紹介ありがとうございました。

そう言えば、あそこあたりは風流な地名の多いところでした。

私もこの際、竹中郁の著作を買おうかとネットで探してみましたが、けっこうお高いですね。どうせ読めないのだったら、和田浦海岸さんにご紹介していただいた記事だけで満足することにします。
こんにちは。 (和田浦海岸)
2023-02-21 13:49:38
こんにちは。水仙さん。
再度コメントありがとうございます。

古本の件、賢明なご判断ですね(笑)。
ネット検索だとけっこうな値段だし。

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