和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

迷う読者に。

2010-08-14 | 他生の縁
山村修著「『狐』が選んだ入門書」(ちくま新書)は、机上の本棚に並べてありました。
え~と。その机にすわることがめっきりないので、そのまま忘れておりました(笑)。
ひさしぶりにとりだして、パラパラ。
そうそう、紹介されている入門書で、ネット古本屋で購入できなかった本が、そういえば、以前に2冊あったのでした。さっそくネットで調べてみると、安く売られている。さっそく昨夜注文。それも同じ古本屋でした。

それはそれとして、パラパラとひらくと、こんな箇所。
それは藤井貞和著「古典の読み方」を紹介している箇所でした。

「・・・高校や中学のときに目にしてすこしでも記憶にのこっている名前の作品、とくに感銘を受けたおぼえのある作品をあらためて読むのがいちばんよいと書いています。教科書なら教科書で部分的に読んだ作品を、あらためて、はじめの一行から最後の一行まで全部、読んでみることを奨めると書いています。
それでもなお迷う読者のことを思ってでしょうか、さらにつづけて、つぎにように力強く言い切っています。
『私は何といっても『徒然草』を第一に推す。何だ、『徒然草』か、と軽視してはいけない。二十歳台での『徒然草』の読者、三十歳台での『徒然草』の読者、四十歳台での『徒然草』の読者と、読者の受け止め方が刻々と変わってゆくのだ』
『これは読者の年齢が高いほど読みが深い、ということを必ずしも意味しない。ここがだいじなことだが、いずれの年齢の場合にしても、以前に読んだときより、今回のほうが読みが深くなる、ということだ。こうして古典文学は、二度読む、あるいは二度以上読むこと大切だ、という重要な指針が導きだされる』」

 さて、ここまでは、ここまでとして、このあとの山村修氏の言葉が印象に残ります。

『私はここに、ともかく手当たりしだいに濫読せよとすすめる評論家たち(たくさんいます)の無責任さとは画然とちがう、読者に対する誠実さを感じます。藤井貞和のいうように、手にふれるものを何でも自由に読もうというは『放恣(ほうし)』であって『自由』ではなく、『秩序のない乱読は乱雑な文化人を作りだすだけ』なのです。
また、もし『徒然草』を一度読んだら、いつか再び取りだす日まで書棚にしまっておこうというのも有益なサジェスチョンです。いったんは、しめくくりをつけてやること。書物は生き物であり、生き物は眠りを必要とする。愛読書はいつまでも起していないで眠らせてやり、浮気のようにほかの書物へと関心を移してみるのがよい。なぜなら『ほんとうの愛読書なら、いつかあなたの心のなかで、眠りから目ざめるときがきっと来ることだろう』し、『そのときの新鮮さは格別の味わいがある』と著者は記します。古典文学再読のよろこびを語って、これは至妙(しみょう)の一節であるといえるでしょう。」(~p60)


さて、この新書に、新聞書評の切り抜きを挟み込んでありました。
そのひとつ2006年8月6日読売新聞は【鵜】さんでした。そのはじまりを、ここにもう一度引用してみましょう。

「たかが200㌻ちょっとの新書と侮ってはいけない。これを読んだあなたは、膨大な読書時間と書籍代の出費を覚悟した方がいい。・・・」
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