和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ここでチェンバレン。

2021-12-18 | 地域
月刊Hanada2022年1月号の平川祐弘氏の連載から、
チェンバレンとハーンを取り上げた箇所を引用。

「明治時代の西洋の日本解釈者は
チェンバレンとハーンが双璧だが・・・」(p351)

「ちなみにチェンバレンは神道を無価値と評し
――これも私にかぎらず違和感を覚える人はいるだろう――
ハーンと対立した。

明治に来日した英米系の日本研究者は、
神道は内容空虚、伊勢神宮は掘立小屋同然、と述べた。

日本人にも『その通り』と同調する人は昔も今もいるだろう。」
(p352)

はい。明治神宮での牧野陽子さんの講演の題名は
『ラフカディオ・ハーンがとらえた神社の姿』でした。
そのハーンを語るまえに、講演のはじまりで
チェンバレンから触れてゆくのでした。
ここには、講演のはじまりの箇所を引用してみます。

「・・神社については、当時の西洋の代表的な意見として、
明治時代の38年間日本に滞在していた英国人バジル・ホール・
チェンバレンが、『日本事物誌』(1890年)のなかで、
以下のように記しています。

 神道の社殿は、原始的な日本の小屋を少し精巧にした形である。
 神社は茅葺の屋根で、作りも単純で、内容は空っぽである。(神道)

伊勢神宮についても、こう述べます。

 観光客がわざわざこの神道の宮を訪ねて得るものがあるかといえば、
 大いに疑わしい。檜の白木、茅葺きの屋根、彫刻もなく、絵もなく、
 神像もない。あるのはとてつもない古さだけだ。(伊勢)

このような神社観は、もちろん、当時の外国人による神道そのもの
の評価と表裏一体をなすもので、再度チェンバレンの記述を引用すると、
このように記されています。

 神道は、仏教が入って来る前の神話や漠然とした祖先崇拝と
 自然崇拝に対して与えられた名前である。しばしば宗教として
 言及されているが、その名に値する資格がほとんどない。
 神道には、まとまった教義もなければ、神聖な書物も、
 道徳規約もない。(神道)

・・・・・このような西洋人の神道観に対して、
ラフカディオ・ハーンは、

『神道の源泉を書物ばかりに求めていてもだめだ、
現実の神道は、書物の中に生きているのではない。
あくまで国民の生活のなか、心の裡に息づいているのだ。』(杵築)

と反論していますが、同時にハーンは、
『神道の本質とは何かという問に明確な答えを与えるのは今なお難しい』
ということも、多くのエッセイのなかで繰り返し述べています。」
(p89~91)

はい。牧野さんは、こうして講演をはじめてゆくのでした。

『あくまで国民の生活のなか、心の裡に息づいている』
とハーンは指摘するのですが、この師走の一日、
お正月に神社に参拝することを思いながら、この言葉を反芻してみます。

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