和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

新聞概論。

2009-08-13 | 朝日新聞
ドナルド・キーン著「日本人の戦争 作家の日記を読む」(文藝春秋)を読んでいます。
第六章が「玉音」で、第七章が「その後の日々」。第七章の高見順の箇所が引っ掛かりました。8月20日の新聞報道についての言葉があります。
以下引用

「うそしか書けなかったということはわかる。
それは国民も知っている。
しかし、だからといって、しゃあしゃあとしているのはどうかね。
―――これは新聞だけのことではない。
言論人、文化人全体の問題で、
僕等作家も等しく謝罪せねばならぬことだが」・・・
翌日の読売報知新聞で、科学と芸術の振興を唱えているトップ記事を読んだ高見は、『虐待されて来た文学も今度は自由が得られるだろう』と書いている。その記事に明るさがあることは認めても、新聞の節操のなさに、高見の心は晴れない。同日の日記の後半で、高見は読売報知の記事に対する自分の反応をさらに詳細に記している。
「朝、急いで書いたので胸の中のもだもだをとくと突き留めることができなかった。『心は晴れない』と簡単に書いたが、事実はもっと激しく、不快なのであった。腹が立っていた。よくもいけしゃあしゃあとこんなことがいえたものだ、そういう憤怒である。論旨を間違っていると思うのではない。全く正しい。その通りだ。だが如何にも正しいことを、悲しみもなく反省もなく、無表情に無節操にいってのけているということに無性に腹が立つのである。常に、その時期には正しいことを、へらへらといってのける。その機械性、無人格性がたまらない。ほんの1月前は、戦争のための芸術だ科学だ、戦争一本槍だと怒号していた同じ新聞が、口を拭ってケロリとして、芸術こそ科学こそ大切だなどとぬかす、その恥知らずの『指導』面がムカムカする。莫迦にするなといいたいのである。戦争に敗けたから今度は芸術を『庇護』するというのか。さような『庇護』はまっぴら御免だ。よけいな干渉をして貰いたくない。さんざ干渉圧迫をして来たくせに、なんということだ。非道な干渉圧迫、誤った統制指導の故に、今日の敗戦ということになったのだ。その自己反省は棚に挙げて、またもや厚顔無恥な指導面だ。いい加減にしろ!」



以上は敗戦後の高見順の日記からなのでした。
あれ。どこかで聞いたような文句だなあ。と私は思ったのでした。
昭和20年に8歳だった養老孟司氏の「こまった人」(中公新書)に
2005年1月12日の『朝日新聞』について取り上げた文が掲載されておりました。
題して「奇妙なNHK・朝日騒動」。
そこに、ついでのようにして、養老氏の個人的な体験が語られているのでした。

「私の親は『朝日新聞』をとっていたが、大学紛争以降、私自身は『朝日新聞』をとらないし、読まないのである。それは朝日の人にも申し上げた。紛争のときには、朝日が記事にするたびに、紛争が深刻化したという思いがあるからである。つまり新聞記者はある意味で紛争の当事者だったのだが、その後始末はほとんどわたしたちがしたという思いがある。・・・・ともあれ今度の事件について、政治的圧力があったに違いないと、朝日が決めたらしい。そんなものはなかったというNHKと、それで喧嘩になった。・・・」


せっかく養老孟司著『こまった人』をもちだしたので、
そこから、「参拝問題」という文も引用しておきましょう。
はじまりは、
「小泉首相が靖国神社に初詣をして、また『問題を起こした』。そう書くと、多くの『開明的な』人たちは『小泉が問題を起こした』と解釈するであろう。・・・」

けっこう内容をはしょって行きます。

「医者を強く告発する人間が医者になったら、はたしていい医者になるか。私はそれを信じない。根本的には、必要なときに他を信じない人間に、生産的なことができるはずがないと思うからである。小泉首相はべつに『特別な人』ではない。『ただの人』である。ただの人が首相という特別な地位に置かれたとき、どう行動するか。そろそろそれを、民主主義国家である以上は、一般市民も『身につまされて』考えるべきであろう。・・・
記事を書いたり報道をしたりする人たちは、その意味ではしばしば他に対する責任を感じないで済む人たちである。『俺はそこまで偉くない』と、自分で思っているからであろう。メディアの根本にあるのは、そのことだと思う。その文脈でなら、メディアの報道より靖国に参拝する小泉のほうを私は信用する。・・・・」


あらためて、ドナルド・キーン著「日本人の戦争」へと話題をもどします。
序章の最後はこうでした。
「この本が生れるきっかけとなった数々の日記はすべて公刊されていて、戦前戦中戦後の時代史の研究家にはよく知られたものである。しかし意外にもこれらの日記は、日本の大東亜戦争の勝利の一年間と悲惨極まりない三年間について語る人々によって、時代の一級資料として使われたことがほとんどない。」

あとがきには、こんな箇所があります。

「岩波書店から発行されていた永井荷風全集には原作ではなく、改作が収められていますが、それに対する説明はありません。わたしはより文学的な原作の方を採用することにしました。」

そうそう。養老さんの新書には、こんな箇所がありました。

「新聞やテレビのニュースを見ていると、そこがわからない。
どこまでが本当で、どこまでが嘘か。
そう思いながら、いつも見ている。
こんな疲れる話はない。それなら実際の人生と同じではないか。
科学の世界には、まだ本当の話がある。
若いときには、そう思っていた。その科学も社会のなかにあり、
人間のすることである。それがわかってしまうと、万事同じこと、
どこまでが本当でどこまでが嘘か、年中考えなければならない。
ああ、疲れる。それならファンタジーのほうがいい。
そう思うから、私はファンタジーばかり読む。アニメを見る。
マンガを読む。それも飽きたらどうするか。突然思う。
なるほど、だから年寄りは宗教なんだ。
・・・・」

養老氏は東大の解剖学の先生でした。
大学紛争も経験されておりますし、
大学生が、オウム真理教へと結びつく現場も御存知のようです。

せっかく、ここまで、来たから、もうすこし続けましょう。
徳岡孝夫著「『民主主義』を疑え!」(新潮社)の「はじめに」で
徳岡氏は1960年の秋のことを語っております。
それはニューヨーク州の大学の教室での新聞概論の一時間目の話を、語っておりました。

「すでに八年間の記者としての実績があった。だが部長、デスクや同僚が口にするのは『抜いた』『抜かれた』『掘り下げが足らん』など技術的な面ばかりだった。言論の自由は日本国憲法と共に占領軍から与えられ、従って考える余地のないものだった。ところが占領軍の母国であるアメリカでは、その否定の側から『言論の自由』を問うている。私は、この『一時間目の結論』を、正しいと言いたいのではない。今も考え続けている。・・」

さてっと、その授業の結論というのは、どういうものだったのか。


「あれをディベートと呼ぶのか。九十分が過ぎ、最初の授業というか議論というかが終ったとき、教室全体が一つの結論に達していた。それは『言論の自由はいかなる圧力に抗しても守らねばならない』ものである。しかし『満員の映画館の中で『火事だ!』と叫ぶ自由は誰にもない』ということだった。・・・ショックが、私を打ちのめしていた。『新聞概論』の一時間目が、言論の自由の制限だったことである。それまで一度もそんなこと、日本では議論はおろか考えたことすらなかった。」
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