注文してあった、ちくま文庫・長井勝一著「『ガロ』編集長」が届く。
表紙カバーの絵は、つげ義春が描きそうな家の二階窓から長井勝一らしい人物が顔を出しているという場面。解説は南伸坊で「長井勝一の人間宣言」。
さてっと、NHKの朝の連続ドラマは、来週からいよいよ『ガロ』が発売になる場面が映し出されるようです(そう土曜日の番組最後の予告でやっておりました)。
それじゃあ、てんで、このちくま文庫の、それらしき箇所を探してみました。
ありました。ありました。そのころの長井さんから見た、水木しげる氏の様子が書かれている箇所を引用。
「『ガロ』を始めるときに、調布のお宅にうかがって、わたしは、水木さんに短篇を描いてもらえないだろうかと頼んだ。そうしたら、ぜひ描いてみたいけれど、どう描いていいかわからないというのである。それと、短篇に限らず、いまの自分は、何を描いたらいいのか、何が描きたいのか、よくわからないというのである。貸本マンガがダメになって来ていて、経済的にも苦しく、水木さんも、相当に追いつめられた気分だったのだろう。」
そりゃそうです、「河童の三平」「鬼太郎夜話」が、かせぎにはならないとしたら、次に何を描けばいいというのだろうと、思うわけです。長井勝一さんは続けます。
「そこでわたしは、次に行ったときに、古典落語の本を二冊もって行った。こういうものでも参考にしたら、何かヒントになることがあるかもしれない、と思ったのである。・・・いずれにせよ、1964年の『ガロ』の創刊から一、二年の間に描かれた水木さんの作品は、いま見ても大変すぐれたものだった。とくに『ネコ忍』だとか、『ああ無情』だとか、『剣豪とぼたもち』というのは、わたしが大好きな作品である。
だが、このころの水木さんは、たんに水木しげるの名前で発表した作品だけで『ガロ』に登場していたわけではない。たとえば、1965年の4月号を見ていただくと、その活躍ぶりがよくわかる。ここでは、まず水木しげる名で、『剣豪とぼたもち』がある。ついで、水木さんの本名の武良茂の名で、『イソップ式漫画講座』として、『どうなってんの』と『これはたまらん』の二つの掌篇を描いている。また同じ武良茂名で『劇画小史』を、これは文章で書いている。水木さんが、飄逸でユーモラスな調子の文章の書き手であることは、御存知の方もおられるだろう。『劇画小史』にもそれが生きているが、ここではもう一つ、東新一郎という名前で、『ロータリー』という欄に、社会戯評を書いているのだ。まさしく、一人四役で大車輪の活躍をしているのだ。・・・」(~p201)
この次に、こんな箇所もありました。
「当時は、貸本マンガがどんどんダメになっていく時期で、貸本からきた作家たちは、描く場所がなくて苦労していた。経済的にも大変だった。水木さんも、同じだったのである。だから、『ガロ』という場ができたので、どんどん描いてくれた。決していわゆる多作ではないが、水木さんとしては、次々と新しい作品を描くという、珍しいような状態だったのだ。『ガロ』では、安い原稿料しか払えなかったが、それでも何かの役に立ったのではあろう。また、文章のほうは、本業のマンガよりも楽だったようで、頼むと、ほとんどその場でサラサラと書いてくれた。」(p202)
そして「イソップ式漫画講座」の「これはたまらん」が、マンガそのままに引用してありました。
表紙カバーの絵は、つげ義春が描きそうな家の二階窓から長井勝一らしい人物が顔を出しているという場面。解説は南伸坊で「長井勝一の人間宣言」。
さてっと、NHKの朝の連続ドラマは、来週からいよいよ『ガロ』が発売になる場面が映し出されるようです(そう土曜日の番組最後の予告でやっておりました)。
それじゃあ、てんで、このちくま文庫の、それらしき箇所を探してみました。
ありました。ありました。そのころの長井さんから見た、水木しげる氏の様子が書かれている箇所を引用。
「『ガロ』を始めるときに、調布のお宅にうかがって、わたしは、水木さんに短篇を描いてもらえないだろうかと頼んだ。そうしたら、ぜひ描いてみたいけれど、どう描いていいかわからないというのである。それと、短篇に限らず、いまの自分は、何を描いたらいいのか、何が描きたいのか、よくわからないというのである。貸本マンガがダメになって来ていて、経済的にも苦しく、水木さんも、相当に追いつめられた気分だったのだろう。」
そりゃそうです、「河童の三平」「鬼太郎夜話」が、かせぎにはならないとしたら、次に何を描けばいいというのだろうと、思うわけです。長井勝一さんは続けます。
「そこでわたしは、次に行ったときに、古典落語の本を二冊もって行った。こういうものでも参考にしたら、何かヒントになることがあるかもしれない、と思ったのである。・・・いずれにせよ、1964年の『ガロ』の創刊から一、二年の間に描かれた水木さんの作品は、いま見ても大変すぐれたものだった。とくに『ネコ忍』だとか、『ああ無情』だとか、『剣豪とぼたもち』というのは、わたしが大好きな作品である。
だが、このころの水木さんは、たんに水木しげるの名前で発表した作品だけで『ガロ』に登場していたわけではない。たとえば、1965年の4月号を見ていただくと、その活躍ぶりがよくわかる。ここでは、まず水木しげる名で、『剣豪とぼたもち』がある。ついで、水木さんの本名の武良茂の名で、『イソップ式漫画講座』として、『どうなってんの』と『これはたまらん』の二つの掌篇を描いている。また同じ武良茂名で『劇画小史』を、これは文章で書いている。水木さんが、飄逸でユーモラスな調子の文章の書き手であることは、御存知の方もおられるだろう。『劇画小史』にもそれが生きているが、ここではもう一つ、東新一郎という名前で、『ロータリー』という欄に、社会戯評を書いているのだ。まさしく、一人四役で大車輪の活躍をしているのだ。・・・」(~p201)
この次に、こんな箇所もありました。
「当時は、貸本マンガがどんどんダメになっていく時期で、貸本からきた作家たちは、描く場所がなくて苦労していた。経済的にも大変だった。水木さんも、同じだったのである。だから、『ガロ』という場ができたので、どんどん描いてくれた。決していわゆる多作ではないが、水木さんとしては、次々と新しい作品を描くという、珍しいような状態だったのだ。『ガロ』では、安い原稿料しか払えなかったが、それでも何かの役に立ったのではあろう。また、文章のほうは、本業のマンガよりも楽だったようで、頼むと、ほとんどその場でサラサラと書いてくれた。」(p202)
そして「イソップ式漫画講座」の「これはたまらん」が、マンガそのままに引用してありました。
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