和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

硫黄島。

2006-11-21 | 硫黄島
今年読んでいた本で気になっているのが、硫黄島でした。
「栗林忠道 硫黄島からの手紙」(文芸春秋)
「散るぞ悲しき」梯久美子著(新潮社)
「常に諸子の先頭に在り」留守晴夫著(慧文社)
の3冊読みました。
秋からはクリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作が上映されています。
「父親たちの星条旗」が公開されており、レビュージャパンでも4~5名の方が
映画の感想を書き込んでおりました。そして
「硫黄島からの手紙」が12月9日からロードショーだそうです。
試写会を見たのでしょう。産経新聞の11月16日一面コラム「産経抄」は
こんな風にはじまっておりました。
「やはり日本軍は『物量』に負けたのだ。クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』を見てそう思う。5日もあれば終わるとされた硫黄島の攻防戦は、昭和20年2月19日から36日間の激戦となった。米軍との圧倒的な戦力の差を、迎え撃つのは渡辺謙さん扮する栗林忠道中将だ。とはいえ、砲撃が上陸作戦の3日前から始まっていたことが小欄には気になる。米軍の大艦隊が島を取り囲み、島が吹っ飛ぶかと思われるほどの艦砲射撃を繰り返す。日本軍の戦闘力を破壊したうえで、海兵隊が上陸すれば絶望的抵抗になる。硫黄島戦のように膨大な戦力を集めて圧倒する勝ち方は、米軍の伝統的な戦争方法だ。・・・・」

ところで、「司馬遼太郎が考えたこと 15」(新潮社)をめくっていたら、
そこの「山片蟠桃賞の十年」という文が載っておりました。
そこをパラパラとめくっていると
「サイデンスティッカーさんは硫黄島作戦に従軍されました。私も、当時の志望としてはそこにいたはずでした。硫黄島作戦がああいうものになるとは知りませんで、同じ時期に寒い寒い満州におりました私は、この寒い満洲から逃れるには硫黄島しかない、と思いこみました。つまり硫黄島にひとつ戦車連隊が新しくできるということで、連隊長は、むかし私どもがこどものころに、ロサンゼルス・オリンピックだったと思いますが、西竹一という馬術で金メダルをとった人であります。そこへゆきたいと思いまして、連隊副官で山根というおそろしい顔をした少佐がいましたが、この人に『どうしても、硫黄島へやってくれ』と頼みました。私が自分の半生で自分のために運動をした唯一の猛運動です。『新しい戦車連隊ができるとしたら、私はそこへゆきたいのだ』と言いに三度ほど少佐をたずねました。山根少佐はとうとうどなりまして、『硫黄島へゆくのは、おまえよりもっと成績のいいやつなんだ』『おまえの成績は非常にわるいのだ』と。成績のわるいのはたしかですけれども、じつはもう編成が終わっていたんだろうと思います。・・・」

最近では、岡野弘彦歌集『バグダッド燃ゆ』(砂子屋書房)を眺めておりましたら、
その最後にある長歌のなかには、

「・・・やがて大き戦おこりて、折口大人の教へ子の幾人かは、屍を海やまにさらして帰らずなりし中にも、みまし命が最もいつくしみましし養ひ子の春洋(はるみ)大人が、南の硫黄島のむごき戦に命果てしを知りて、歎き歌多く詠みいで給ひき。・・・」

この春洋さんのことについては岡野弘彦著「折口信夫の晩年」(中央公論社)に、ポツリポツリと書かれております。その硫黄島についても出てきます。
その十四章には
「二十七年の一月二十九日、国学院の研究室へ、朝日新聞社会部の牧田茂氏から電話があって、硫黄島の戦死者を供養するために、元海軍大佐和智氏の一行が明日飛行機で出発することになった。」
(ちなみに和智氏については上坂冬子著「硫黄島いまだ玉砕せず」(文藝春秋)に詳しいのでした)。
「先生を待っていると、牧田さんから電話がかかってきた。いま出た読売新聞の夕刊に、硫黄島の洞穴で発見した書類の写真が出ていて、それに春洋さんの名が、はっきりと読みとれるということである。早速、文部省の玄関へ出て新聞を買ってみると、ぼろぼろになった考科表副本の氏名欄に、藤井春洋という筆の字が、あざやかににじみ出ていた。・・・」
「その夜、家に帰ってから、いつものように春洋さんの写真の前の湯呑にたっぷりとお茶を注いでのち、先生はしずかに話された。
『いままで、春洋の戦死について、一片の通知書や、形ばかりの遺骨を受け取っても、どうしても心に納得がいかなかった。今日はじめて、春洋は硫黄島で戦死したのだということを、心の底から信じることのできる気持ちになった。そしていままでにない、心のしずまりを得ることができた。もしできるなら、いつか硫黄島に渡って、春洋の死んだ洞窟に入っていって、自分の眼でその跡を確かめてみることができたら、さらに心が落着くことだろうね』。先生の声は、ちょっと意外に思われるほど、しずかに明るく、なごんでいた。先生の小説『死者の書』は、岩窟の中の大津皇子のよみがえりを描くところから始まっている。そして、未完のまま終った『死者の書続篇』には、死後もなお鬚や髪の伸びるという空海上人を安置した、高野山の開山堂を開こうとすることが描かれている。先生がもし戦後における『死者の書』を書かれることがあったら、それはまず、春洋さんの亡くなった洞窟にみずからが尋ね入って行かれるところから、書きはじめられるにちがいないと、その夜の先生の話を聞きながら、私は思った。」

そういえば、歌集『バグダッド燃ゆ』に、『髭・鬚・髯』と風変わりな題にして13首が並んでいる箇所がありました。その歌が、場違いな感じで坐りが悪いような、可笑しいような、そんな妙な振幅で印象に残るのでした。

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