goo blog サービス終了のお知らせ 

和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

併読紙である。

2018-06-21 | 道しるべ
外山滋比古著「新聞大学」(扶桑社)が
文庫に入ったと広告で知る。この機会に
未購入のままだった単行本を、古本で注文。
はい。価格11円。送料349円とのこと。
それが届く。

以下は、「ひとつでは多すぎる」と題した文から引用。


「戦前、地方では、新聞を読むのはいわばエリートであった。
一般に、新聞を見ることもなく一生を終えた人がどれくらい
いたかわからない。それだけ、生活にゆとりがなかったと
言えるかもしれないし、知的欲求が小さかった、ということもあろう。

新聞はひとつ取っていれば充分である。
そう思っていた人が多かったとき、
もうひとつ別の新聞を取る人たちが、
戦前、大正時代から存在したのは
注目されなくてはならない。併読紙である。

その地方でも、同じ比率で併読紙の読者がいたのではない。
大部分のところでは、新聞を取らない家庭が大部分であった時代でも、
たとえば、京阪神、関西では、併読紙をもつ読者がかなりいたらしい
のは注目される。そういう背景にして、
日本のジャーナリズムはまず関西から展開した。

東京は首都であると威張っても、文化度では、
関西に及ばないかもしれない。ことに周辺の
農村部では新聞読者は少なく、
併読紙など考えることもできなかった。

 ・・・・・・・・・・

とにかく、
併読紙を持つか持たないかは大きな問題である。
軽い気持ちで、もうひとつ新聞を購読するなど
ということは考えにくい。やはり、
ものの考え方にかかわってくる。

ひとつの新聞しか見ていなければ、
その新聞の考え方、見方、価値観に、
しばられるという自覚もなくしばられている。

併読紙があれば、いやでも、
新聞の持っている個性、傾向などが目に入るはずで、
それによって、読者は新しい知的個性を育むことが
できるはずである。」

そして、この章の最後は
こうしめくくられておりました。

「ひとつでは多すぎる、というプリンシプルにしたがえば、
併読の読者は、真の新聞読者であるということができる。

国際競争力のある知性を育むことも
可能であるように思われる。」(p168~170)


ほかにも、
ハットさせられる箇所があり、
きれいな古本で、買ってよかった(笑)。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 京都の夏。 | トップ | わが家の愛読者。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

道しるべ」カテゴリの最新記事