道元著「正法眼蔵」のなかの、
「仏道」巻をせっかくめくったので、
興味ぶかい箇所をとりあげてみます。まずは、
その前に、道元が宋に渡るまでを順をおって辿ります。
「道元は、14歳にして叡山で剃髪したが、
その翌年にはもう山を降りた。・・・・
『正法眼蔵随聞記』の第4巻によれば、
『終に山門を辞して、遍く諸方を訪ひ、道を修せしに、
建仁寺に寓せし中間、正師にあはず、善友なく故に、
迷て邪念を起しき』とみえる。・・・・
その迷える道元を救ってくれたのは、栄西の法嗣明全との出会い
であった。その時、道元は、はじめて、仏祖正伝の仏法を語る
禅のながれに触れることを得たのである。
そのころ、彼が明全によって伝え聞くことをえた建仁寺の
故僧上すなわち栄西の言行は、しばしば、若くして求道の
志にもえる彼の心をうった。・・・・・
おなじ思いの師の明全をうながして、直往して宋に渡った。
明全は40歳、そして、道元はなお23歳であった。
・・・・『・・五宗の玄旨を参究せんと擬す』・・・・
彼が入宋以来その時まで参究せんとしていたものは『五宗の玄旨』
であったと知られる。・・・・
いうまでもなく、ここに『五宗』といい、かしこに『五門』というは、
おなじく、いわゆる『五家』を指さすものであって、しかも、そのなか
においてもっとも大いなるものは、ほかならぬ臨済宗であった。
『・・・・いはゆる法眼宗・潙仰宗・曹洞宗・雲門宗・臨済宗なり。
見在大宋には、臨済宗のみ天下にあまねし。五家ことなれども、
ただ一仏心印なり』それが、道元の見たかの地における禅の現勢
であったといってよろしい。
しかるに、道元は、はからずも、やがて『先師古仏』すなわち
天童如浄にまみえて、参学の大事を了得し、故国に帰ってきた。
つまり、彼は、臨済のながれではなくて、曹洞のながれを汲ん
だのである。『いささか臨済の家風をき』いてここに到った彼が、
いまは曹洞のながれのなかに立つこととなったのである。」
( 増谷文雄著「臨済と道元」春秋社p17~20 )
こうして、曹洞宗の道元なのですが、
『正法眼蔵』の第49『仏道』をひらくと、
仏法としての、視界がはれてゆき、
ひらけてゆくのを覚えるのでした。
『仏道』から、天童如浄のことばを引用している箇所。
「先師なる如浄古仏は、上堂して衆に示していった。
『このごろ、そこらあたりのあれやこれやが、しきりと、
雲門(うんもん)・法眼(ほうげん)・潙仰(いぎょう)
臨済(りんざい)・曹洞(そうとう)など、
いろいろ家風のわかちがあるというが、
そんなのは仏法ではない、祖師道でもない』
このようなことばは、千歳にも遇いがたいものである。
先師にしてはじめていいうるところである。
ほかではとても聞きえないところで、
この法席にしてはじめて聞きうるところである。
だがしかし、その席につらなった一千の雲水のなかにも、
そのことばに耳をそばだてる者はなかった。
それを理解するだけの眼識ある者もなかった。
ましてや、心をそそりたてて聞く者もなく、
ましていわんや、その身をこぞって傾聴する者もなかった。
・・・・・・・
わたしもまた、まだかの先師なる如浄古仏を礼拝しなかった以前には、
かの五宗の家風を学び究めたいと思っていた。・・・・」
(講談社学術文庫「正法眼蔵(五)」p90~91)
はい。如浄古仏の言葉の次からを原文で
あらためて引用してみます。
「この道現成(どうげんじょう)は、
千載(せんざい)にあひがたし、先師ひとり道取(どうしゅ)す。
十方にききがたし、円席ひとり聞取す。しかあれば、
一千の雲水のなかに、聞著(もんじゃく)する耳朶なし、
見取する目睛(がんぜい)なし。いはんや心を挙してきくあらんや。
いはんや身処に聞著するあらんや。たとひ自己の渾身心に
聞著する億万劫にありとも、先師の通身心を挙坫(こねん)して、
聞著し、証著し、信著し、脱落著するなかりき。
あはれむべし・・・・・」(p88~89)
この『仏道』巻を増谷氏は、原文・現代語訳してゆくまえに、
「開題」と題して、ていねいに解説しております。
そこからも引用して終ります。
「この一巻(仏道)の内容とするところは、
かなりながいものであるが、しかし、
そのいわんとする趣きは、きわめて明快である。
つまり、仏道には宗派の称などあるべからざるものだ
ということをずばりと説いているのである。
・・・・仏祖正伝の大道を、ことさらに禅宗などと称するのは、
それは仏教そのものがまるで解ってはいないのだというである。
・・・・
そのことを道元は、それぞれの祖師がたについて一人ずつ
証(あか)ししてゆくのである。ともあれ、まったく
至り尽したことであるというのほかはあるまい。」(p70)
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