和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

司馬さん、大きな声。

2021-04-01 | 本棚並べ
朝日新聞を考える際に、
こういう切り口からはいるのなんてどうでしょう。

読売新聞に連載された毎週土曜日の
ドナルド・キーン著「私と20世紀のクロニクル」
(2006年1月14日~12月23日)を楽しみに切り抜いておりました。
その挿絵が、山口晃さんでした。あの洛中洛外図をよ~く見ると、
バイクや自動車が走っていたりする時代が現代と昔と錯綜する
図柄の細密画を得意とする画家さんです。

毎回挿絵を楽しみにして、切り抜いておりました。
連載中の切り抜きのたのしみがおわれば、
箱にしまって、そのままになっておりました。
その箱の埃をはたいて、中身をひろげてみますと、
今回は、新聞に関する箇所が気になりました。

1953年夏に、キーン氏は待望の京都での日々がはじまります。
そこで、永井道雄氏との出会いを語るなかに

「・・私は彼のことを教師として、いわば日本についての
最初で最高の案内役として尊敬した。

一か月前、奥村夫人から新聞は何を取りますかと聞かれた時、
私は新聞を読む暇はないと応えた。

これは浅はかな考えだったが、京都滞在中の一年間、私は
日本文学について出来るだけ多くを知るように心掛けていたのだ。

同じ一時間なら、芭蕉の俳句について考える方が、
新聞を読むより有効な時間の使い方だと私は考えたのだった。

しかし、永井さんとの毎晩の会話の結果、私は現在に生きている
日本の文化を無視することは出来ないと気づいた。

アーサー・ウェイリーが日本訪問の招待を断ったのは、
ウェイリーの関心が平安時代にあって現代の日本になかったからである。
私もウェイリーに倣って、過去に没頭するつもりでいた。

しかし永井さんの影響で、私は新聞を読み始めただけでなく、
日本人の生活に参加したいと思うようになった。」
(25回目「太郎冠者」で生涯に一度の晴れ舞台・7月8日)


新聞といえば、もう一箇所ありました。それは、
10月28日の41回目「司馬遼太郎の『冗談』から駒」にありました。

「1982年、朝日新聞の後援で『緑樹』をテーマに会議が開かれた。
・・・参加者たちは終了後、お礼に料亭に招待され、そこには鰻と、
ふんだんな酒が彼らを待っていた。

宴の途中で、座敷の上座にあたる席に座っていた司馬遼太郎が立ち上がり、
下座にいる朝日の編集局長の方にやって来た、見るからに司馬は、
かなりの酒を飲んでいた。彼は大きな声で、『朝日は駄目だ』と言った。

編集局長は、当然のことながらびっくりした。司馬は続けた。
『明治時代、朝日は駄目だった。
しかし、夏目漱石を雇うことで良い新聞になった。
今、朝日を良い新聞にする唯一の方法は、
ドナルド、キーンを雇うことだ』と

・・・・誰もが司馬の発言を酒の上での冗談と受け取った。
・・・・
しかし一週間ほど経って、永井道雄(当時、朝日の論説委員だった)が
私に告げたのは、朝日が司馬の助言に従うことに決めたということだった。
私は、客員編集委員のポストを与えられた。・・・・」


ちなみに、ドナルド・キーンの『私と20世紀のクロニクル』は
2006年に、読売新聞で連載されていたのでした。
つまりは、『朝日を良い新聞にする唯一の方法』を
1982年に、せっかく、そのチャンスを手にしたのに、
2006年に、そのチャンスを、もう自ら手放していた。
そう読み取れるのでした。

うん。読売新聞は、この時点で
『良い新聞にする唯一の方法』を会得していたようです。

生き残りをかけた新聞業界の舵取りを、
古い新聞連載の切り抜きで、たどれるような気がしてきました。










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