和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

摂政宮(のちの昭和天皇)

2024-02-23 | 地震
今日の産経新聞(2024年2月23日)一面の左上に
「 64歳の誕生日を前に記者会見に臨まれる天皇陛下 」の写真があり。
縦見出しは『天皇陛下64歳』『能登地震復興を心から願う』とあります。

思い浮かぶのは、大正12年の関東大震災と復興でした。
武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(中公選書)に
山本権兵衛内閣の、震災直後の親任式の場面があります。

「 地震(関東大震災)の翌日・・・
  午後7時半、東宮御所であった赤坂離宮の広芝御茶屋にて、
  金屏風を立て燭台の灯りの下で、
  摂政宮(のちの昭和天皇)による
  第二次山本内閣の親任式が行われた。」( p83 )

ここに、摂政宮(のちの昭和天皇)による親任式のことが記してあります。

昭和天皇のご生涯の年譜をふりかえると、

 明治34年4月29日に誕生。
 明治45年7月30日明治天皇崩御、皇太子に践祚。
 大正3年4月学習院初等科ご卒業。東宮御学問所ご入学。
 大正10年欧州諸国ご巡遊。・・・
           ( 山本七平著「昭和天皇の研究」から )

ということは、大正12年9月1日の関東大震災は、22歳でした。

武村氏の記述を追います。

「・・震災発生直後に摂政宮が発した詔書である。・・

 復興事業を終えて昭和天皇が発した『勅語』、
 震災発生直後に摂政宮が発した9月12日の『詔書』、
 ならびに9月3日の『摂政宮御沙汰』の3つの文面が・・

 詔書はそのなかの一つで、
 摂政宮の御名御璽のもとに発せられたものである。 」(p123)


武村氏は、『詔書』から特に注目する箇所を引用しておりました。

「 ・・緩急その宜を失して前後を誤り或は個人若(もし)くは
  一会社の利益保証の為に多衆災民安固(あんこ)を脅かす
  が如きあらば人心動揺して抵止する処を知らず。

  朕深く之を憂惕(ゆうてき・うれいおそれる)し
  既に在朝有司に命じ臨機救済の道を講ぜしめ
  先ず焦眉の急を拯(すく)うを以て恵撫滋養(けいぶじよう)の
  実を挙げんと欲す。・・・ 」

これを武村氏は訳しております。

「 この非常時に一儲けしようとする個人や会社の利益保証に走れば、
  人心は収まるところがない。摂政宮はそれを憂慮して、
  
  政府に対し臨機応変に一番急ぐことから手がけるように求め、
  人々の心を潤すよう指示した。

 摂政宮はすでに9月3日に『摂政宮沙汰』を発して、
 被災者への1000万円(約5000億円)の下賜に言及している。・・」(p124)


はい。私も詔書を読んでみたいと思いました。
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻のはじまりは
『詔書』と『御沙汰書』からはじまっておりました。
ひらくと、『詔書』は大正12年9月12日と、大正12年11月10日の2書あり。
『摂政宮御沙汰』は大正12年9月3日。こちらは4行ほどでした。

9月12日の『詔書』で、私が気になったのは武村氏の引用された
その直前の箇所でした。はい。原文を引用しておきます。

「  朕深ク自ラ戒愼シテ已マサルモ惟フニ天災地変ハ
   人力ヲ以テ予防シ難ク只速ニ人事ヲ盡シテ
   民心ヲ安定スルノ一途アルノミ凡ソ非常ノ秋ニ際シテハ
   非常ノ果断ナカルヘカラス
   若シ夫レ平時ノ条規ニ膠柱シテ活用スルコトヲ悟ラス
   緩急其ノ宜ヲ失シテ前後ヲ誤リ或ハ個人・・・・  」

はい。このあとは武村氏が引用した箇所へとつながっております。
摂政宮の『惟フニ』というお気持ちが、滲み出ている気がします。

最後に年譜にもどりますが、
山本七平著「昭和天皇の研究」(祥伝社・平成元年)には
13歳で『4月、学習院初等科ご卒業。東宮御学問所ご入学』とありました。
それに関する箇所を本文から最後に引用しておきます。

「 天皇は小学校は学習院で学ばれた。校長は乃木(希典)大将・・・

  天皇は中等科へは進まれず、宮中の御学問所で学友とともに
  学ばれることになった。総計6人、期間7年である。
  7年はやや変則な期間に見えるが、当時にあった7年制高校と
  同じと考えてよいであろう。・・・  」(~p36)

このあとに山本七平は、その御学問所の先生方を語っていたのでした。



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