産経新聞の3月12日産経抄は
「『あんな人(菅直人氏)・・・」
とはじまっておりました。
うん。ここは一面コラムを読んで
もらうことにして。
私はおもいつくままに。
「彼れを知り」ということで
最近話題だった彼を知ることに。
雑誌「WILL」4月号に
宮崎謙介衆院議員の不倫・議員辞職騒動
についてありました。
門田隆将氏のコラムでは
「宮崎氏は、早稲田高等学院という付属高校から
早大商学部にエスカレーターで進み、就職した
大手生保を一年で辞め、転職した企業も一年で
辞めている。」(p26)
蒟蒻問答では
堤】 かつて宮崎は、いまは議員の
加藤鮎子(加藤紘一の娘)と結婚、婿入りしたけど、
三年にして離婚した。これも女出入りが原因だ。
だけど宮崎の場合、問題は国事に奔走する身で
ありながら育児休暇とは何事か、だ。妻と合わせて
五千万円の歳費が出る。ベビーシッターを雇えば
済む話じゃないか。
宮崎や奴の問題提起自体を支持する政治家らは、
『民に先んじて憂え、民に遅れて楽しむ】、
つまり先憂後楽という公職にあるものの持つべき
ノブレス・オブリージュ(高貴なる義務)が欠落
しているのです。しかも、それが誰も反対のできない
育児休暇という名目に隠れて罷り通る。・・・
久保】 ・・宮崎は女房や子供がそんなに大事なら、
育児休暇の間、議員の職を辞して育児に専念し、
子供が大きくなったら再び立候補して国民に信を問う
のが筋道でしょう。本来、政治家とは自己犠牲を厭わず、
国家・国民に奉仕する者たちが就くべき職業です。
ところが、奴の行為は育児休暇という大義名分に隠れて、
『私』のために『公』を犠牲にするということなのです。
しかも堤さんのおっしゃるとおり、それを教え諭すべき
先輩議員たちは、ただただ世論から育児休暇という
大義名分に反対という烙印を押されては大変、と
首をすくめるだけ。宮崎というアホな男の取るに足らぬ
女性スキャンダル問題よりも、
こっちのほうが遥かに深刻ですよ。(~p264)
ということで、
宮崎謙介衆院議員のことを
忘れても読み直せるように、このブログに採録
しておきました。
さて、もどって
今日の産経抄でした。
その後半最後を引用することに
「・・(23年)この年12月、再びお話を聞いた
菅野(典雄)村長は、菅氏の四国霊場八十八ヵ所巡り
再開に憤っていた。『菅さんよ、首相を終えたなら
お遍路じゃなく、被災地の仮設住宅を歩くのが
普通じゃないか』。にもかかわらず、
菅氏は昨年10月には、自身の10年間のお遍路の記録を
まとめた著書をのんきに出版した。
俳人の長谷川櫂さんの『震災歌集』に収められた
一首の短歌が頭にこびりついて離れない。
『かかるときかかる首相をいただきて
かかる目に遭ふ日本の不幸』。
事故対応をめぐっては政府、国会、民間、東電の
各事故調査委員会がそれぞれ検証し、
報告書をまとめている。どれも労作だが、
政治家の言動と責任への追及が共通して甘かった。」
「彼れを知り」といえば、
佐々淳行著「彼らが日本を滅ぼす」(幻冬社)に
「私は、学生時代の菅直人氏をよく知っている。」
とはじまる箇所があります。
以前にもこのブログで紹介したような気がしますが、
すぐ忘れるので、「彼れを知る」ための例として引用。
「菅直人総理も、あの第二次反安保闘争の学園紛争
花盛りの当時、バリケード封鎖された東京工業大学の
輝ける闘争委員長だった。
三派セクトには属していなかったようだが、
東工大学生たちを反安保闘争にかり立てる名アジテーター
であったことは間違いない。当時、警視庁警備第一課長で
機動隊運用の責任者だった私は、学長・加藤六実氏の要請で
同大学付近に出動・待機していた間に、ラウンドスピーカー
を通じて流れてくる彼のアジ演説を耳にしたものである。
加藤学長は、『あの菅という学生には手を焼いております。
彼がアジ演説をすると、すぐ500人くらい集まって騒ぐ
ので困っております』と、窮状を私に訴えていた。
・・・当然ゲバ棒や投石による全共闘の抵抗があって
検挙者も出たが、その中に菅闘争委員長の姿はなかった。
現場で警視庁の警備公安の幹部たちが、
『我々は、菅のことを【四列目の男】と呼んでいるんです』
と言う。・・・・
『機動隊が検挙活動に入ると、横隊だと三列目までは
手が届くんですが、四列目となると手が届きません。
彼はいつも四列目より後ろにいて、逃げ足が速いんで
捕まえられないのです』
なるほど、三回にわたる検挙活動で菅委員長を
捕まえることができなかったわけがわかった。
政界入りは、婦人有権者同盟の市川房江さんの選挙に
関わったことがきっかけとなり、三回も落選したが、
四回目となった1980(昭和55)年の衆院選で初当選を
果たしている。当初は社会民主連合で社会党会派に属して
いた・・・・」(p140~141)
ところで
「彼れを知り己れを知れば、百戦あやうからず。
彼れを知らずして己れを知れば、一勝一負す。
彼れを知らず己れを知らざれば、
戦う毎(ごと)に必ずあやうし。」
この言葉は孫子なのだそうです。
うん。孫子を読まなきゃ。
「『あんな人(菅直人氏)・・・」
とはじまっておりました。
うん。ここは一面コラムを読んで
もらうことにして。
私はおもいつくままに。
「彼れを知り」ということで
最近話題だった彼を知ることに。
雑誌「WILL」4月号に
宮崎謙介衆院議員の不倫・議員辞職騒動
についてありました。
門田隆将氏のコラムでは
「宮崎氏は、早稲田高等学院という付属高校から
早大商学部にエスカレーターで進み、就職した
大手生保を一年で辞め、転職した企業も一年で
辞めている。」(p26)
蒟蒻問答では
堤】 かつて宮崎は、いまは議員の
加藤鮎子(加藤紘一の娘)と結婚、婿入りしたけど、
三年にして離婚した。これも女出入りが原因だ。
だけど宮崎の場合、問題は国事に奔走する身で
ありながら育児休暇とは何事か、だ。妻と合わせて
五千万円の歳費が出る。ベビーシッターを雇えば
済む話じゃないか。
宮崎や奴の問題提起自体を支持する政治家らは、
『民に先んじて憂え、民に遅れて楽しむ】、
つまり先憂後楽という公職にあるものの持つべき
ノブレス・オブリージュ(高貴なる義務)が欠落
しているのです。しかも、それが誰も反対のできない
育児休暇という名目に隠れて罷り通る。・・・
久保】 ・・宮崎は女房や子供がそんなに大事なら、
育児休暇の間、議員の職を辞して育児に専念し、
子供が大きくなったら再び立候補して国民に信を問う
のが筋道でしょう。本来、政治家とは自己犠牲を厭わず、
国家・国民に奉仕する者たちが就くべき職業です。
ところが、奴の行為は育児休暇という大義名分に隠れて、
『私』のために『公』を犠牲にするということなのです。
しかも堤さんのおっしゃるとおり、それを教え諭すべき
先輩議員たちは、ただただ世論から育児休暇という
大義名分に反対という烙印を押されては大変、と
首をすくめるだけ。宮崎というアホな男の取るに足らぬ
女性スキャンダル問題よりも、
こっちのほうが遥かに深刻ですよ。(~p264)
ということで、
宮崎謙介衆院議員のことを
忘れても読み直せるように、このブログに採録
しておきました。
さて、もどって
今日の産経抄でした。
その後半最後を引用することに
「・・(23年)この年12月、再びお話を聞いた
菅野(典雄)村長は、菅氏の四国霊場八十八ヵ所巡り
再開に憤っていた。『菅さんよ、首相を終えたなら
お遍路じゃなく、被災地の仮設住宅を歩くのが
普通じゃないか』。にもかかわらず、
菅氏は昨年10月には、自身の10年間のお遍路の記録を
まとめた著書をのんきに出版した。
俳人の長谷川櫂さんの『震災歌集』に収められた
一首の短歌が頭にこびりついて離れない。
『かかるときかかる首相をいただきて
かかる目に遭ふ日本の不幸』。
事故対応をめぐっては政府、国会、民間、東電の
各事故調査委員会がそれぞれ検証し、
報告書をまとめている。どれも労作だが、
政治家の言動と責任への追及が共通して甘かった。」
「彼れを知り」といえば、
佐々淳行著「彼らが日本を滅ぼす」(幻冬社)に
「私は、学生時代の菅直人氏をよく知っている。」
とはじまる箇所があります。
以前にもこのブログで紹介したような気がしますが、
すぐ忘れるので、「彼れを知る」ための例として引用。
「菅直人総理も、あの第二次反安保闘争の学園紛争
花盛りの当時、バリケード封鎖された東京工業大学の
輝ける闘争委員長だった。
三派セクトには属していなかったようだが、
東工大学生たちを反安保闘争にかり立てる名アジテーター
であったことは間違いない。当時、警視庁警備第一課長で
機動隊運用の責任者だった私は、学長・加藤六実氏の要請で
同大学付近に出動・待機していた間に、ラウンドスピーカー
を通じて流れてくる彼のアジ演説を耳にしたものである。
加藤学長は、『あの菅という学生には手を焼いております。
彼がアジ演説をすると、すぐ500人くらい集まって騒ぐ
ので困っております』と、窮状を私に訴えていた。
・・・当然ゲバ棒や投石による全共闘の抵抗があって
検挙者も出たが、その中に菅闘争委員長の姿はなかった。
現場で警視庁の警備公安の幹部たちが、
『我々は、菅のことを【四列目の男】と呼んでいるんです』
と言う。・・・・
『機動隊が検挙活動に入ると、横隊だと三列目までは
手が届くんですが、四列目となると手が届きません。
彼はいつも四列目より後ろにいて、逃げ足が速いんで
捕まえられないのです』
なるほど、三回にわたる検挙活動で菅委員長を
捕まえることができなかったわけがわかった。
政界入りは、婦人有権者同盟の市川房江さんの選挙に
関わったことがきっかけとなり、三回も落選したが、
四回目となった1980(昭和55)年の衆院選で初当選を
果たしている。当初は社会民主連合で社会党会派に属して
いた・・・・」(p140~141)
ところで
「彼れを知り己れを知れば、百戦あやうからず。
彼れを知らずして己れを知れば、一勝一負す。
彼れを知らず己れを知らざれば、
戦う毎(ごと)に必ずあやうし。」
この言葉は孫子なのだそうです。
うん。孫子を読まなきゃ。
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