和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

こいつは春から。

2007-01-19 | Weblog
今年の第五回毎日書評賞は、池内恵著「書物の運命」(文藝春秋)。
そういえば、昨年は谷沢永一著「紙つぶて 自作自注最終版」が受賞していたなあ。
と思い出していたら、昨年でた二冊が思い浮かびました。

まずは、谷沢永一著「執筆論」(東洋経済新報社)に「紙つぶて」連載の経緯が丁寧に書かれております。
それに、山野博史著「人恋しくて本好きに」(五月書房)に「『紙つぶて』誕生秘話」(p201)。
あとは、大岡信著「現代文学・地平と内景」(朝日新聞社・古本)。
この三冊を並べて読むと面白いのでした。

せっかくですから、その経緯を順を追ってみていきましょう。

戦後。読売新聞社が西へと進出し、大阪本社を設立。それから年月を経た昭和44年。大阪版の夕刊で、週一回月曜日の書評欄を、600字程度で匿名コラムとして常設しようというお誘いを谷沢さんは受けることになります。そして昭和47年10月、書評欄が東京本社一本になるのを潮に、新聞連載を終了する139回分までの経緯から語られております。

匿名コラムの常設に際して、山崎デスクからの電話での相談に、谷沢氏はこう答えていたそうです。
「咄嗟のことであるから思いつくままに、書評頁の一角に置かれる以上、話題を新刊書に発すべき枠組みは動かぬにしても、できれば時間の流れを自由にさかのぼってさまざまな旧刊書と結びつけ、各種既刊書への回顧と連想を兼ね、直近の新刊案内を主としながらも、姿勢としては広く出版活動全般および書評趨勢の検討を心がけ、同時にまた、十分には知られていない価値ある出版物の発掘と紹介と顕賞にも意を用い、あいなるべくは書物好きにとって耳寄りな一寸した文化史的挿話(エピソード)を挿入する、というような案はいかが、と気楽な他人事のつもりで口走った・・・」

まあ、そうして始まった連載の心意気はどうだったのか。

「全力をあげて私は毎週の『紙つぶて』を書き続けた。生身の人間は需要に応じて発電を制御(コントロール)する工合にはいかない。常に全力投球に徹するほかないのである。・・・当分の間、とだけ言われてその日その日に書いているのであるゆえ、出来が悪くて読者に受けなかったら、何時突然打ち切りとなっても当然、文句の言える筋合いはない。極端に言うなら毎回が即席の登用試験(オーディション)であり、立場としては臨時の見習い小僧である。水を一杯に溢(い)れてコップを捧げ持ちながら走り続けている気分であった。うっかりちょっとでも水を溢れさせこぼしたら競技(ゲーム)はそこでお終いとなる。とにもかくにも全力をふりしぼって前途の見えない闇雲の走りであった。・・・」

そういえば、先頃でた日垣隆著「すぐに稼げる文章術」(幻冬舎新書)の最後には、必読33冊を並べているのですが、そこに谷沢著「執筆論」も取り上げられておりました。
とうことで、続けます。

「何時か停止の処分を受けるであろうと覚悟しながらも私なりに疾走している。それを庇ってくださった文化部への感謝は今に忘れない生涯最大の幸福であった。・・・」

その疾走に急停車がかかるのが昭和47年でした。
「書評欄が東京本社一本に切り替ったのを機に、『紙つぶて』は139回をもって終った。・・終了を告げられたとき、縋っていた糸が突如として切れたように私はかなり気落ちした。自分ではそれほどに思わなかったにしても、暫くは少し軽度の鬱に陥っていたようである。急停車はやなり無意識のうちに心身を苛(さいな)んでいたのかもしれない。」

そこに、僥倖が舞い込みます。
大阪の古書店浪速書林の梶原正弘店主。
谷沢氏とは同年輩であり、しかも飲み友達。
「その浪速書林が私を元気づけるために『紙つぶて』を自腹で一冊の本にしてやろうと思い立ってくれたのである。・・浪速書林は、心配いりまへんがな、と手を振って、売れなんだら店で高価な本を買うてくれはったお客さんへ、グリコやないけどオマケにつけて捌けまんがな、と笑って・・・」

ここから、山野博史氏にバトンが移ります。
山野氏は「初出紙でその一投目にめぐりあって」と「紙つぶて」の出合いを語っております。それが本になった時でした。

「『署名のある紙礫』(昭和49年11月3日・浪速書林。書名は開高健の発案)が店頭に届き、献呈者名簿に基づく発送作業が一段落した時分、朝日新聞東京本社学芸部気付で文芸時評担当者の大岡信さん宛に贈るという独自作戦を無断で敢行したのである。
すると、なんと昭和50年1月28日付夕刊掲載の『文芸時評(下)』で、谷沢先生のおすまし写真を添えて、『書名のある紙礫』が取りあげられ、はれやかに紹介されているではないか。超ヤマ勘、みごと的中。こいつは春から縁起がいいわい、とひそかに快哉を叫んだのはいうまでもない。」


それでは、他ならぬ谷沢氏も、繰り返し、繰り返し読み返したであろう
大岡信氏の、その文を、ここにおもむろに引用してみたいと思うのでした。


「・・近代日本文学の研究者である谷沢永一の、『私の書物随筆』と副題した『署名のある紙礫』は、本を読むことが文字通り命を養うことに等しいような本好きの、特色ある『随筆』である。
・・・・谷沢氏は書誌学的厳密さを徹底して重んずる学者だから、ここでの書物や筆者をめぐる話題も、多くその点にかかわる。人に筆誅を加えるときのきびしさ、烈しさは、当今あまり他に例がないものだが、この種のきびしさは、筆者自身に私心があってはどだい成りたたぬ。谷沢氏の本を一貫しているのは、書物のために憤り、書物のために歓喜する書物狂の正義感であって、その筆がときに示す烈しさに目をむく人でも、その理由についてはいちいち納得できる。
とりわけ私が感じ入ったのは、一篇わずか六百字程度の時評のひとつひとつに、その後得た新しい知識や、執筆当時の思いちがいの訂正や、資料として必要なデータなどを綿密に註として付けていることで、その心がまえは、文学研究者のもって範とするに足るものがある。この人に、『今更めくが、明治文学の研究は、まったく柳田泉と木村毅を先達として始まったものである。この二人の学風を、かりに忽卒に要約するなら、史的臨場感の尊重、その探索と固執、と言えるのではないか。・・・明治文学の近代的割り切りなら、小器用と饒舌で間に合うだろうが、その白々しい喧騒は、結局論者の気晴らしでしかなかった。』という意見があるのは当然で、この『史的臨場感の尊重』ということこそ、谷沢氏自信がみずからの本を作るに際してまずおのれに適用した論理にほかならなかった。」

ということで、一冊の本を介して、ここでは、谷沢さんと大岡さんとのつながりを見てみました。

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突然失礼致します。 (花梨)
2007-01-20 16:34:31
突然失礼致します。映画「硫黄島からの手紙」について検索を掛けていたところ、そちらの書評が目に止まりましたので、書き込みさせて頂きました。「栗林忠道硫黄島からの手紙」の書評において、「昭和20年1月21日の手紙。これは受け取った奥さんによる塗りつぶした跡があるのでした。」とありますが、奥さんが塗りつぶしたというのは確かなのでしょうか。わたしは、戦中、祖父が祖母に宛てた葉書きを見たことがありますが、同じ様に黒く塗りつぶされていました。祖母が受け取った時には既にその状況だったとの事でした。あの当時は国が全ての手紙を検疫し、受け取り側に届く前に、愛国心が掛けている内容、受け取った側が動揺する様な内容、戦地の状況が伝わる様な内容は全て塗りつぶしていたと聞きました。どんな内容にしろ奥さんが戦地の夫から受け取った手紙を塗りつぶすということはしないだろうと私は思います。ブログ内容とは全然関係ないのですが、気になったので書き込みさせて頂きました。失礼致しました。
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たしかに。 (和田浦海岸)
2007-01-20 19:42:58
じつは。最近この書評を取り上げてもらったことがあり、あらためて、自分の書評を読み返してみたのですが、やはり、私もこの箇所がひっかかりました(自分で書いておきながら)。花梨さんの「どんな内容にしろ奥さんが戦地の夫から受け取った手紙を塗りつぶすということはしないだろうと私は思います」というのが正しいと私も思います。
さて、私が書評を書いていたときの心持を思い出してみます。不思議に思ったのは、塗りつぶされている箇所が一通の手紙だけだったことでした。この手紙たちを最初から読み進めていた一読者としては、そこがひっかかりました。私は、これを読む奥さんの立場を思っておりました。おそらく遺書という言葉が書かれた時に、わかっていたことなのに居たたまれない気持を抱いたのではないか。いっそ消してしまいたい気持が湧いたのではないか。と私は思ったのです。この手紙を繰り返し繰り返し読んでいたでしょうし、家族にも子供たちにも手紙は読まれていたのかもしれません。そこで奥さんが墨を塗ったとすると、私の感情は自然と落着くのでした。たとえば最後の「長い間、ほんとによく仕えて呉れて難有思っています。」というのは検閲官ならきっと、わざわざ消さなかった箇所じゃないかと思うのです。それほどに注意深く消す箇所が考慮されております。もし私が検閲官なら硫黄島の中将で、最高指揮官の立場にある人の手紙を検閲するのですから、細心の注意を払ったと思われます。そうすると「尚も一つ、墓地に就ては此の前豪徳寺などとも申したが、あれはあの当時東京に定住が出来る場合であったからで今日としては何処でもよい。」という墨で塗りつぶした箇所などは、奥さんへの具体的な指示でして、検閲官がかってに塗りつぶしてしまってはイケナイとの配慮が当然はたらいてもいいと思われます。私が検閲官ならば「遺書としては」「殊に又遺骨は帰らぬだろうから」「もし霊魂があるとしたら御身はじめ子供達の身辺に宿るのだから、居宅に祭って呉れれば十分です(それに靖国神社もあるのだから)。」以上の箇所を塗りつぶすだけにしておきます。
ところがイザ奥さんの立場になると、どうしても、塗りつぶしてしまいたくなる。という奥さんの立場にたった箇所が適切に塗りつぶされているのじゃないかと私は思ったのです。

以上、私が書評を書いた時の、印象を書いて見ました。正しいのは花梨さんの言うとおりだと思われます。間違いですが、私はそう思いながら、その時は書きました。そして、そのように手紙を読みました。
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すばらしい評価者 (北祭)
2007-01-21 01:22:32
こんにちは和田浦海岸さん。

谷沢永一さんと大岡信さんについて一考。

執筆家にとって最大の屈辱は黙殺であることは谷沢さんも常々指摘されております。
かたや、適確な評価をもってパッと光を当てられたときのその嬉しさ、幸運には並ならぬものがあろうかと思います。執筆家にとって最大の幸運は、すなわち、すばらしい評価者に恵まれること、これに尽きるといえますね。

谷沢さんは『達人の智恵』で取り上げた19名のリストに大岡信さんの名をしかっりと刻まれておりました。大岡信さんには常に敬意を怠らず真摯な態度で臨まれているようです。大岡さんの文を読むと、”人に支えられてこその人生である”という谷沢さんの人生観がいかに作られてきたのか、その一端を見る思いがします。
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有難うございます。 (花梨)
2007-01-21 14:24:28
早速の御返事感謝致します。実は今日「硫黄島からの手紙」を見てきました。祖父の手紙とだぶり悲しかったです。検閲ですね。すみません。勉強させて頂きました。例え検閲で消されたとしても、読み取ることは可能なわけで、それが、良かったのか悪かったのかは別として、今から考えると意味のないことをして国民をコントロールしていたんだなと思います。大切なことは青山繁晴さん(youtubeで見ました)がおっしゃっていた様に、戦争で亡くなった先輩の日本人のためにも、立派な日本に、心の美しい日本人になる様に一人一人が考え、行動しなければならないという事だと思います。お時間を割いて頂き有難うございました。
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コメントどうも。 (和田浦海岸)
2007-01-21 22:19:13
北祭さん。谷沢永一と大岡信のお二人というのは楽しめるテーマ。さらに、ブログを更新して書いてみようと思います。

花梨さん。御返事ありがとうございます。私のブログのCATEGORY欄に「硫黄島」を設けましたので御覧いただければ幸いです。「硫黄島からの手紙」については、語らなければならないことが、まだまだあると思っております。それを未熟な私が記していけるかどうか、心もとないのですが、思いつくままに、私のブログで書いてみようと思っております。
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Unknown (花梨)
2007-01-22 03:09:27
硫黄島のコラム拝見させて頂きます。硫黄島に限らず、他に興味があるコラムもありましたので、時々訪問させてください。
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