富士正晴著「狸の電話帳」(潮出版社・1975年)のあとがきに、
この本は「五冊目のわたしの雑文集」であるとありました。
これが気になり、5冊の雑文集をあつめてみることに。
はい。私は雑文集というのが好きで、まして
富士正晴氏などのは、雑文の方が生き生きしてるんじゃないか。
そう思うところがあるからで・・・。
昨日。その一冊が届いている。今朝ポストを覗くと
新聞といっしょにありました。
富士正晴著「八方やぶれ」(朝日新聞社・1969年)。
カバー絵、表紙・扉カットは、富士伸子とあります。
パラリとめくると、蚊が押し花みたいに
本の頁にはさまり、圧死してる(笑)。
この本の最後の文は「私の絵とその応援団」。
はい。ここから引用してみることに。
「高等学校を中退して、花鳥画家の榊原紫峰の長男の家庭教師を
していた時、君、絵かきにならぬかと一度だけいわれた。
二度といわれなかったところを見ると、
余り見込みもなかったのではあるまいか。」(p263)
「・・紫峰氏の一言に勇奮して、絵にいそしむということはなかった。」(p264)
「戦争から帰って、板が残っていた限り、版画をほりつづけ、
板がなくなったらやめた。」(p264)
「それと前後して、何をどう思ったのか、
京都で二回版画展をひらいた。・・・
二回は進々堂というパン屋の喫茶室で。
どちらも版画を入れる額を借りるのに苦労した。
伊東静雄、上野照夫、大山定一といった
戦前からの知り合いが、文章をかいて応援してくれた。 」
「このあたりの記憶はいまは大分おぼろ気である。酒が配給制の時代であった。」
「何のときか大洞(正典)の家へ皆で寄って酒をのんだことがある。
酔っぱらって、わたしは襖に絵をかきなぐり、
吉川幸次郎は書をかいた。貝塚茂樹が後から、
こうかけ、ああかけと指図していた記憶がある」
「数年前、或る日突然に、わたしの画展を東京でやって、
びっくりさせてやろうという企てが起り、
わたしは応援団つきで絵をかかされた。
多田道太郎、山田稔、杉本秀太郎といった・・酒をのみながら、
シラフで絵をかいているわたしを鼓舞激励するというわけである。
何カ月かかかり、絵がたまると、桑原邸でそれのよりわけがあり、
作品名は貝塚茂樹が片っ端からつけて行った。
文春画廊で一週間足らず興行したこの画展は、その受付は豪華陣であり、
桑原、貝塚、鶴見、吉川・・、当のわたしは照れに照れて、
東京へも行かなかった。・・ 」(p266)
はい。雑文の楽しみを味わえた気分になります。
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