和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

柳田国男の、おふるでないもの。

2022-03-16 | 柳田国男を読む
うん。うん。いつかは読もうと思っていた柳田国男。
さて、それならこのブログではじめましょう。
そう、思ったわけです。
柳田国男の関連本は何冊か本棚に鎮座します。
ページもめくらないきれいな本が並んだまま。
せめて、前書きでも。後書きでも。解説でも。
ひらいてゆこうという試みを、このブログで。

柳田国男という大海の波打ち際に、
うちあげられる、漂着物を拾って、
それをブログという標本箱に展示。

これならば、私にもできそうです。
この大海原にも海水浴場があって、
そこには、俳諧海水浴場との表示。
折よくば、俳諧の砂浜で甲羅干し。
という好機が訪れてくれる楽しみ。

はじまりは『木綿以前の事』の自序。
そこの最後には昭和14年4月とある。

さてっと、自序のなかにも俳諧が拾えました。

『七部集は30何年来の私の愛読書であります。』

ちなみに、この『木綿以前の事』には、
さまざまな文章からなっておりました。
こうあります。

「・・関係ある文章を取添えて、一冊の本にすることにしたのであります。
たいていは人に語りまたは何かの集まりに話をしたものの手控えのままな
ので、聴手の種類や年齢に応じて、表現の形が少しずつかわり、
文章も大分不揃いであります。・・・・」

この自序には、柳田国男氏の家族のことが出てきます。

「・・実は私には女の子が4人あり、孫も4人あって4人とも女です。
彼らとともに、またはその立場から、次の時代を考えてみなければならぬ
必要が、前にもあり今もしばしばあります。」

はい。自序の最後を柳田さんは、こう締めくくります。

「自分自分の疑惑から出発する研究を、
すこしも手前勝手とは考えておらぬのみか、

むしろ手前には何の用もないことを、人だけに説いて
聴かせようとする職業を軽蔑しているのであります。

現在の日本に自国の学問がなければならぬということを、
私などはこういう風に解しております。

俳諧に残っているのは小さな人生かも知れませんが、
とにかく今までは顧みられないものでありました。

事は過去に属しつつも、依然として新しい知識であります。

そうしてまた現在の疑惑の種子であります。
これからの日本に活きて行こうとする人々に、
おふるでないものをさし上げたいと、
私だけは思っているのであります。

      昭和14年4月             」


うん。そういえば、柳田国男氏の家族構成で思い浮かんだのは、
長谷川町子さんでした。母親と三人姉妹。鞠子・町子・洋子。
そして、洋子さんには娘さんが二人。


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