河合隼雄・・「ウソツキクラブ短信」(講談社・1995年)に
「駅名さまざま」というので、千葉県が登場しておりました。
車中で居眠りして車掌さんに場所を尋ねると
「『これ、どこ行きですか』
『キミツです』
・・・・・
彼はなんだか不安になってきて、ふと気づくと電車が
ガタガタと揺れはじめ脱線でもしそうな感じになってきた。
『そ、それで、こ、これ何線ですか』
『ボーソー特急です』
『暴走特急が機密の駅に行く』
・・・・
関東の人にとって、房総特急の駅の終点に
『君津』という駅のあることぐらいは常識であるだろう。」
(p43)
このあとには、京都の桜の名所・周天街道が
語られておりました。
「この周天に行くのに、バスに乗るのだが、このバスが
『途中行き』なのである。京都から滋賀の方へ抜けてゆく
道の途中であるから『途中』というのだろうが、なにしろ、
それがバスの終点なので混乱のもとになるのだ。
私が京都駅に着いたときのことだ。案内所へ行って、
『周天まで行きたいのですが』と言うと、
京美人の案内嬢が現れ、ハンナリとした声で、
『しゅうてんどすか、そんなら、とちゅう行きのバスにお乗りやす。
しゅうてんまで行かはると、とちゅうどすから、
とちゅうのしゅうてんでお降りやす。おわかりやしたか。・・・』」
(p44)
うん。杉本秀太郎著「ひっつき虫」(青草書房・2008年)に
杉本氏が京都から千葉へと出かける場面が載っておりました。
うん。せっかくなので丁寧に引用してゆきます。
「・・『浅井忠の図案展』を見るべく佐倉に行った。
昔は徳川の重臣堀田氏の城下として栄えた下総国印旛郡の
この町を訪れるのはこれが初めてであった。
京都を発って東上するあいだ、靄の立ちこめた薄暮のような
天候が静岡までつづいたが、総武本線に乗り継いだ昼すぎには
日が射してきた。千葉には何度となく行ったことがある。
往き帰りの電車から見る東京千葉間の都会の景ほど
荒涼無残なものはない。千葉をすぎてもなお同じ。
ところが四街道の町が切れると、不意に景色は一変し、
櫟(くぬぎ)、小楢の雑木林が冬枯れの薄野を挟んで展延し、
なだらかに目路を遮りはじめる。
いまから五十年前まで、私たちの日常生活に欠かせぬものだった
炭のうち・・・上質の白炭として名高かった佐倉炭は、
この雑木林あっての産物なのだった。・・・・
浅井忠が佐倉の町を東に一里ばかり出外れた将門山の屋敷に
少年の日々をすごした文久から明治初めにかけての世には、
印旛の林間に炭焼小屋が点在し・・・かように思い描いていると、
京都に移り住んだのちの浅井忠には、比叡山のふもと
八瀬の里から薪をかしらに載せて京の町に出てくる大原女の姿に、
故郷の追憶がかさなっていたのかと俄かに腑に落ちるものがあり、
油彩にも水彩にもたびたび大原女をえがいた上に、絵皿、茶碗の
図案のなかにまで同じ姿を採用した人が、まだ佐倉駅に着かぬ
うちから、なつかしくてたまらなくなった。
とりわけ私の眼底によみがえるのは、
洛北の櫟林の小道を奥のほうに歩み去るひとりの
大原女を点景人物とする『秋林』と題された水彩画であった。
浅井忠の力量を剰す所なく見させるすばらしい水彩画。」
(~p207)
「総武本線の佐倉駅は、佐倉の町からずいぶん遠くにあった。
・・・・美術館は・・もと川崎銀行の西洋建築をそのまま
活用していた。私は美術館に赴くときには、いつもそこにいたる
道中にこだわるという習癖をもっている。」(p207)
ちなみに、「道中にこだわるという習癖」といえば、
杉本秀太郎著「見る悦び」(中央公論新社・2014年)の
まえがきに、こんな箇所があるのでした。
「柳田國男というひとりの大博物誌家は、あるとき
慶應義塾の山岳部員に、君たちは山を見ても、
途中のことを何故よく見ないのかね、と語った。・・・」
(p2)
はい。私はここを読む前までは
浅井忠の水彩画なんて、と思っておりました。