加藤一雄著「雪月花の近代」(京都新聞社・1992年)。
そのはじまりは『富岡鉄斎の芸術』でした。
とりあえず、パラリとひらいた箇所を引用。
「鉄斎は83歳の時、唯一人の子謙蔵を失った。
この時の老爺の姿は非常に印象的である。
謙蔵なき跡には嫁のとし子さんと三人の孫が残っている。
この人たちがすべて最晩年の鉄斎の肩にかかって来た。
この状は、ちょうど80余年の昔、
一子宗伯を失った滝沢馬琴の運命によく似ている。
馬琴は傷心の暇さえなく、嫁女のお路を唯一の頼りとして、
『八犬伝』を書き進めて行った。
同じように鉄斎もまた、とし子さんを唯一の助手として、
批評家の言葉を借りると、『ベートーベンの交響楽』のような
最晩年の傑作を次々とかいたのである。
この間鉄斎の口からは一語の悲愁ももれていない。
ストイックな諦念(ていねん)の言葉さえもれていないのである。
そしてただ彼の絵のみが蒼勁(そうけい)の美しさをいよいよ
深くして行く――この間の鉄斎の姿は、とし子さんの筆によって、
優しくも生々と描き出されている。・・・・・・
あの白髪白髯も美しい、右眼の少し斜視の、不思議な気魄にみちた
老人の顔を加えたら、この希有の大才の姿は大体遺憾なく出てくる
だろうと思う――
ただし、これに聾疾をもつけ加えてもらいたい。
鉄斎は幼時から耳が遠かったのである。・・・・・」(p34)
「鉄斎の伝記を書くどんな筆者も
『彼は儒者であって、画家ではない』、と書いている。
・・・・・
読書博渉は死にいたるまで鉄斎が一日も止めなかったところであり、
筆をとって記録することは異常なまでに好きだった人である。
断簡零墨は膨大な量に達するという。 ・・」(p35)
はい。ここから本文は深まってゆくのですが、
私はここまで。
あと、ちょっと加藤一雄氏の指摘を引用しておきます。
「彼の絵は、どちらかというと、農村の素封家に愛されるよりも、
都会の商人たちに愛されてきた傾向がある。あの強さ、あの濃厚、
ことにあの賑わしさは、寂莫とした農村のものではなく、
都会的商業的なのである。ここに近代から現代への急激な
移行に際して、鉄斎の価値が飛躍する重要なモメントがある
のではなかろうか。」(p37~38)